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夕立に降られて、傘を買うか迷った

17時52分。会社を出た瞬間に、空の色が変わっているのに気づいた。さっきまで白かった雲の下側だけが、墨をこぼしたみたいに黒くなっている。ああ、これは降るな、と思った瞬間にはもう、頬に最初の一滴が当たっていた。

夕立というのは律儀なもので、こちらの準備が整うのを絶対に待ってくれない。折りたたみ傘は、たしか先週、洗濯した部屋着のポケットから出てきて、そのまま玄関の靴箱の上に置きっぱなしにしてある。つまり今、私の手にはハンカチ一枚しかない。

アスファルトが雨を吸う匂いがした。土でもないのに土っぽい、あの匂い。子どもの頃はこの匂いが好きだったはずなのに、今はただ、スーツの肩が濡れることのほうが気になってしまう。好きだったものが、いつのまにか面倒なものに変わっている。それはそれで、少し寂しい話だ。

コンビニの軒先に、同じように傘を持たない人が三人立っていた。みんな無言でスマホを見ている。雨雲レーダーというやつを見れば、あと何分で止むか分かる時代なのに、誰も口には出さない。分かったところで、雨が早く止むわけでもないのだから。

店に入って傘のコーナーを見る。透明のビニール傘が580円。ちょっといい方の、骨が丈夫そうな黒い傘が880円。値札の下に「なくなり次第終了」と書いてあるけれど、この時間、この店に、この二種類しか置いていないことは分かりきっている。

買うか、買わないか。たった880円のことで、私はレジ前で三十秒くらい固まっていた。傘はうちに、たしか五本くらいある。玄関の傘立ては、開いた瞬間に骨が一本折れて閉じなくなったやつと、ずっと誰かの忘れ物として居座っている水玉模様のやつで、もういっぱいのはずだ。増やしてどうする。

でも今、目の前で降っているのはこの雨で、うちにある五本はどれも役に立たない。当たり前のことなのに、レジ前に立つと妙にこんがらがる。過去の自分の判断ミスの結果と、今の自分の判断は、本当は別の話のはずなのに。

結局、傘は買わなかった。買わない、と決めたわけでもなく、ただレジに並ぶ気力が先に切れた、というのが正しい。かわりに肉まんをひとつ買って、軒先に戻った。湯気の匂いと雨の匂いが混ざって、変な安心感があった。

肉まんを食べ終わる頃には、雨脚が少し弱くなっていた。傘を買うかどうか、あれだけ迷っていたのに、迷っている間に雨のほうが折れてくれた格好だ。なんだ、待てばよかったのか。いや、待つと決めていたわけでもないから、これは単に、運がよかっただけかもしれない。

濡れながら歩く帰り道、髪の先から雫が落ちて、シャツの肩に染みができていくのを見ていた。ここまで来ると、もう諦めというより、実況しているような気分になってくる。ああ、また一滴。ああ、また一滴。困っているはずなのに、少しおもしろい。

駅前のアーケードに入ると、雨の音が急に遠くなった。天井のあるところに来ただけで世界がこんなに静かになるのかと、毎回同じことに驚く。濡れた靴の中で靴下が気持ち悪くて、片方の足だけ変な歩き方になっていることに、今、書きながら気づいた。

傘を買うか迷って、買わずに、濡れて帰る。書き出してみると、我ながら効率の悪い選択をしたものだと思う。880円をケチって、クリーニング代のほうが高くつくかもしれない。それでも、あの軒先で三十秒固まっていた自分のことを、今はそんなに責める気になれない。

決めきれなかった、というだけのことに、いちいち理由をつけなくてもいいのかもしれない。買うのも正解、買わないのも正解、なんてきれいには言えないけれど、少なくとも、あの三十秒の間、私は雨と向き合っていた。それだけで十分だった気もする。

玄関を開けて、靴箱の上の忘れられていた折りたたみ傘と目が合った。次はちゃんと持って出よう、とは思わない。たぶんまた同じように迷って、また同じように濡れて帰る日が来る。それが分かっているのに、直せない自分がいる。それでも、まあいいか、とタオルで頭を拭きながら思う。

今日、傘を買うかどうかで真剣に悩んだあなたも、結局買わずに濡れて帰ったあなたも、それだけの理由でよく頑張った。今夜のシャワーは、少し長めに浴びてもいい。同じ夕立は、たぶんもう二度と降らないのだから。

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