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自販機、お茶のボタンだけ売り切れだった

8月14日、17時52分。改札を抜けた先の自販機の前で、私は少しのあいだ立ち尽くしていた。目当てのお茶のボタンだけが、光っていなかったからだ。

隣の炭酸も、隣の隣のミルクティーも、ちゃんと明るく光って「押してください」という顔をしているのに、無糖のお茶の欄だけがぽっかりと暗い。売り切れのランプというのは、たぶん赤いんだと思っていたけれど、実際はただ光が消えるだけなのだと、そのとき初めて知った。何も主張しない暗さだった。

ホームの屋根の下は、それでも日差しがちりちりと肌に刺さる温度で、汗が首の後ろを一筋、伝っていくのがわかった。手すりは触れないくらい熱く、蝉の声はもう鳴き疲れたのか、さっきより間延びして聞こえる。財布の中の小銭が、手のひらでじわっと汗ばんでいた。

仕方なく、隣にあったブレンド茶のボタンを押した。ゴトン、という音がやけに大きく響いて、それすら少し恥ずかしかった。誰も見ていないのに。

自販機の前で並んでいた三人ほどの人たちも、みんな同じ売り切れのランプの前で、少し迷うような間を置いてから、別のボタンを押していた。何かを諦める時間が、みんなにも一秒か二秒あったということだ。それが妙に、おかしくて、少し切なかった。

たぶん、この時間にこの駅を通る人は、似たような一日を過ごしているんだろう。定時が過ぎて、汗だくで、けれど帰りの電車まではまだ少しあって、とりあえず冷たいものが欲しくて自販機の前に立つ。そういう人が今日、たくさんいたということだ。お茶だけが売り切れるくらいには。

無糖のお茶を選ぶ人というのは、たぶん、何かを整えようとしている人なんじゃないだろうか。糖分でごまかさずに、水分だけをちゃんと摂ろうとする人。仕事終わりにまで、律儀に「ちゃんと」をやっている人。……いや、それは考えすぎかもしれない。ただ甘いものが苦手なだけかもしれない。でも、なんとなくそう思ってしまった。

私は結局いつも、疲れた日ほど甘いものを選ぶ。炭酸か、ミルクティーか、たまにコーンポタージュ。整えるどころか、その日の分の頑張りを味でごまかしているだけだ。お茶を選べる人を、少しだけ尊敬する気持ちがある。ちゃんとしている人、という気がしてしまう自分がいる。

ここまで書いて気づいたけれど、別にお茶を選ぶ人が偉くて、甘いものを選ぶ人がだらしないわけではない。ただの好みの話だ。それなのに、なぜ私はそこに勝手な優劣をつけてしまうんだろう。誰かと比べる癖は、自販機のボタンの前にまで、ちゃんと顔を出してくる。

電車が来るまでの数分、ブレンド茶のペットボトルを握りながらベンチに座っていた。キャップの結露が手のひらに移って、少し冷たくて、それだけでほっとする。中身は少し渋くて、いつも飲んでいる味とは違う。でも、それはそれで悪くなかった。売り切れていたから飲めなかったものを惜しむより、今飲めているものを味わうほうが、多少はましな時間の使い方だと思う。

駅の反対側のホームでは、部活帰りらしき高校生たちがスポーツドリンクの自販機の前で騒いでいた。あちらは売り切れなんてなさそうで、次々にボタンを押しては笑っている。同じ時間、同じ駅にいるのに、渇きの種類が違うと選ぶものも違うのだと、なんとなく思う。

考えてみれば、自販機の中身なんて毎日入れ替わるわけではない。今日お茶が切れているのは、単に今日それだけ売れた、というだけの、それだけの事実だ。明日には補充されて、また何事もなかったようにランプが光る。私が今日感じたこの小さながっかりも、明日には誰も覚えていない。それでいいんだと思う。

電車がホームに滑り込んできて、生ぬるい風がふわっと吹いた。乗り込んで座席に座り、窓の外を見ると、さっきの自販機がだんだん小さくなっていく。あの暗いランプのことなんて、もう誰も気にしていないだろう。私だけが、まだ少し覚えている。

ちゃんとしなきゃ、と思う日ほど、無糖のものを選びたくなる。けれど選べない日もある。整えられない日もある。それでいいと、今は思える。今日、汗だくで駅まで歩いたあなたも、ブレンド茶で我慢したあなたも、ちゃんと今日を渡りきった。売り切れのランプの前で立ち尽くした数秒も、悪くない夏の記憶になる気がしている。

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