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うちわは、去年のイベント名のまま

8月4日、19時42分。部屋の扇風機は「中」で首を振っていて、風がこちらに来るたび、テーブルの上のレシートがかすかに震える。それでも足りない気がして、私は引き出しの奥からうちわを一本取り出した。

紙の面はところどころ日に焼けて色が抜けていて、隅には去年の夏祭りの名前が印刷されている。もう終わったイベントの、もう終わった夏の、名前。柄を持つと、竹の部分が少しべたついている。汗ばんだ手で何度も握った跡だろうか。

扇いでみる。風は扇風機よりずっと弱くて、腕もすぐ疲れる。それでも、なぜか今年もこれを使っている。新しいのを買えばいいのに、と自分でも思う。近所のドラッグストアに行けば、涼しげな柄のうちわが山ほど並んでいるはずなのに。

引き出しの中には、実はこの一本だけではない。不動産屋の名前が入ったうちわ、選挙のとき配られた候補者の顔がプリントされたうちわ、コンビニのレジ横で「ご自由にお持ちください」と書かれていたうちわ。数えたら7本あった。誰かに見せたら「うちわコレクターですか」と言われそうな量だが、集めた覚えは一度もない。気づいたら増えていた、というのが正直なところだ。

去年のその夏祭りには、当時よく会っていた友人と一緒に行った。屋台で買った焼きそばの味も、花火の音も、今となってはうまく思い出せない。ただ、帰り道にその子がこのうちわを「はい」と渡してくれたことだけは覚えている。今はもう、その子とは連絡を取っていない。嫌いになったわけでも、喧嘩したわけでもない。ただ、そういう時期が終わっただけだ。

うちわを扇ぎながら、扇風機の風とは違うな、とふと思う。扇風機の風は一定で、同じリズムで顔に当たる。うちわの風は毎回強さが違って、自分であおいでいるはずなのに、まるで気まぐれな誰かが送ってくる風みたいだ。

――と、ここまで書いて気づいたのだけれど、私はこのうちわを「使っている」というより「手放せていない」だけなのかもしれない。涼しさのためなら扇風機で十分なのに、わざわざ腕を疲れさせてまで扇いでいる。これはもう、涼をとる行為じゃなくて、去年の夏をもう一度なぞる行為に近い。

捨てればいいのに、とまた思う。わかっているのに、できない。うちわ一本のことで大げさかもしれないが、こういう小さな「できなさ」が積み重なって、自分という人間ができている気もする。

去年の夏祭りは、もう二度と同じ形では来ない。同じ屋台が並ぶことも、同じ人と同じ浴衣で歩くことも、たぶんもうない。うちわに印刷された名前だけが、去年のまま止まっている。風はそのたびに新しいのに、名前だけは古いままなのがすこし可笑しくて、すこし切ない。

コンビニでもらったうちわも、選挙のうちわも、いつか誰かの引き出しの奥で同じように黄ばんでいくのだろう。誰も悪くないし、誰の責任でもない。ただ夏が過ぎて、また夏が来て、そのあいだにいろんなものが少しずつ色を変えていくだけだ。

扇風機の「中」の風量を「弱」に落として、うちわだけで扇いでみる。腕がだるくなってきたところで、ふと、今日も一日ちゃんと外に出て、ちゃんと汗をかいた自分に気づく。それだけで、今日は十分だったんじゃないかと思う。

去年の夏祭りの名前が入ったうちわは、来年もきっとこの引き出しの奥にある。捨てられないまま、また誰かに笑われそうな量のうちわの一本として。それでいいと、今のところは思っている。無理に片づけなくても、風はちゃんと今日も、顔に当たっている。

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