7月19日、午後6時40分。まだ空は明るくて、アスファルトはさっき触ったフライパンくらいの熱を持っていた。バケツに水を汲んで、玄関先にじゃばじゃばとまいてみる。子どもの頃、祖母がやっていたのを思い出しただけで、正直なところ意味はよくわかっていない。打ち水をすると気温が下がるらしい、くらいの、ふわっとした記憶を頼りにやっている。
水がコンクリートに当たった瞬間、じゅわ、と小さな音がした。湯気というほどではないけれど、白いものがすっと立ちのぼって、すぐに消える。その一瞬だけ、鼻先に土の匂いに似たものが漂った。乾いた地面が水を吸うときの、あの匂い。夏の匂いというより、雨上がりの匂いに近い気がする。
涼しくなったかと聞かれたら、正直よくわからない。体感温度が2度下がるとか3度下がるとか、そういう話をどこかで聞いた気もするけれど、私は温度計を持ってきて測ったことは一度もない。ただ、水をまいた場所を裸足でそっと踏んでみると、さっきよりひんやりしている、気がする。その「気がする」だけで、なぜだか満足してしまう自分がいる。
そのとき、視界の端でなにかが動いた。隣のブロック塀の上から、茶トラの猫がこちらを見ていた。まん丸の目で、じっと。水をまく音に反応したのか、それとも湿った匂いに誘われたのか、猫はブロック塀からするりと降りてきて、私がまいたばかりの水たまりのふちに、前足だけをちょんと乗せた。
それから何をするでもなく、猫はそこに座り込んだ。ぬれたコンクリートの上に、まるでそこが定位置だったかのように。私は水をまく手を止めて、しばらくその後ろ姿を見ていた。名前も知らない猫だ。首輪もしていないから、飼い猫なのか、この辺りをうろついている自由猟師なのかもわからない。
猫との距離を詰めようとして、少しだけにじり寄ると、案の定、猫はすっと立ち上がって塀の上に戻ってしまった。そのまま振り返りもせず、隣の敷地の方へ消えていく。ものの2分か3分の出来事だった。たったそれだけなのに、なんだかとても濃い時間を過ごした気になるのは、猫という生き物の妙な力だと思う。
打ち水にどれほどの効果があるのか、猫がなぜあの水たまりに座ったのか、どちらもわからないまま夜になった。わからないことをわからないままにしておくのは、思っていたより苦しくない。むしろ、答えを探さなくていいぶん、体の力が抜けるような感覚がある。
考えてみれば、打ち水も猫も、こちらの都合ではどうにもならない。水はまいたそばから乾いていくし、猫はこちらの気分に付き合ってくれるわけではない。効率とか成果とか、そういう物差しからは一番遠いところにある時間だった。でもその物差しの外側にこそ、なんとなく息がしやすい場所があるような気もする。
翌日の同じ時間、また水をまいてみた。猫は来なかった。当たり前だ。あれは昨日だけの、たった一度きりの出来事だったのだと、まいた水がコンクリートに吸われていくのを見ながら思う。同じ場所、同じ時間帯でも、昨日とまったく同じ夕方はもう二度と来ない。そう考えると、あの2分間の猫は、思っていたよりずっと貴重なものだったのかもしれない。
打ち水って結局、涼を取るための生活の知恵というより、単なる儀式なんじゃないだろうか。いや、儀式と言うと大げさすぎる気もする。……と、ここまで書いて気づいたけれど、私はたぶん、涼しくなるかどうかよりも、水をまいているあいだの、あの何もしていない数分間がほしくて続けているのだと思う。スマホも見ず、仕事の連絡も気にせず、ただバケツと地面のあいだを行き来する。それだけの時間。
効果があるかないかを気にしすぎて、何もできなくなることがよくある。運動しても痩せるかわからない、勉強しても身につくかわからない、そう思うと手が止まる。打ち水はその点、気楽だった。効果があってもなくても、水をまいた瞬間のじゅわっという音と匂いは、確実にそこにあったから。結果が出なくても、過程そのものが一応の手触りを持っている、というのは案外めずらしいことなのかもしれない。
夕方に外に出て、何かをまいたり、誰かを待ったりする。それだけのことに、意味を求めなくてもいい日があってもいい。今日も暑い中、あなたはよく外に出た。買い物でも、散歩でも、ベランダでの水やりでも。それだけで、今日という日はちゃんと動いたのだと思う。
打ち水の効果は、たぶんこの先も調べないままだと思う。猫もまた来るかはわからない。でも、来なくても、それはそれでいい。7月の夕方は、そうやって答えの出ないまま、少しずつぬるく暮れていく。それでいいのだと、水をまきながら今日も思っている。
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