9月10日、17時40分。ベランダの物干し竿を家の中に入れながら、空の色がいつもと違うことに気づいた。灰色というより、鉛色に近い。風はまだ生ぬるくて、湿気だけが先にやってきているような、そんな夕方だった。
テレビをつけると、気象予報士が地図の上に大きな渦の絵を出しながら、いつもより少し早口で喋っていた。「明日の朝にかけて、この地域を通過する見込みです」。その声のトーンだけで、なんとなく体が身構えてしまう。台風そのものより、この予報の言い方に反応している気がする。
夕飯の買い物ついでに、近所のスーパーに寄った。入口を入った瞬間、なんとなく空気が違った。みんな心なしか早足で、カゴの中身も似ている。パン、カップ麺、水、電池。パンの棚はもう半分近く空になっていて、残っているのはコーンパンとレーズン食パンだけだった。誰も好んで選ばないやつが、最後まで生き残る。
自分は台風が来ても大抵は何も困らない人間だと分かっているのに、気づけば食パンをカゴに入れていた。しかも二個。ひとり暮らしで、二個も食パンがあってどうするのか。この時の自分に聞いても、たぶんまともな答えは返ってこない。備えるというより、周りに合わせて安心したかっただけなのだと思う。
レジに並びながら、備えるということは、半分くらいは不安を物に変える作業なのかもしれないな、と思った。パンそのものが欲しいわけじゃなくて、パンを持っているという状態が欲しい。棚が空になっていく様子を見ていると、余計にそう思う。
家に帰って、カーテンを早めに閉めた。窓に養生テープを貼るほどではないけれど、なんとなく気持ちだけ整える。懐中電灯の電池を確認して、スマホの充電を100%にして、それだけで自分の役目は終わったような気になる。あとはもう、台風の気分次第だ。
22時過ぎ、雨は降り始めたけれど、思っていたより静かだった。窓を叩く音もそこまで激しくなく、風の音も、去年のあの台風の夜に比べたら随分穏やかだった気がする。天井の電気を消して布団に入る頃には、もうこれは大丈夫な夜だな、という予感めいたものがあった。
翌朝、7時にカーテンを開けたら、拍子抜けするくらい晴れていた。木の枝は少し散らかっていたけれど、ベランダに置きっぱなしにしていたサンダルさえ濡れていない。テレビの気象予報士も、もう次の話題に移っていた。あの緊張感は一体どこに行ったのだろう。
ここまで書いて思い出したのは、小学生の頃、台風で学校が休みになった日の妙な高揚感のことだ。宿題が一日減るわけでもないのに、あの日だけは特別で、雨戸を閉めた薄暗い部屋でラジオを聞きながら、なんだか得をした気分になっていた。今はもう、台風が来ても得をすることなんて何もない。むしろ洗濯物が乾かないくらいで、損の方が多い。
問題は、あの二個の食パンだった。結局、台風の間は他に食べるものがあって手をつけず、通過した後もなんとなく開けるタイミングを逃し続け、気づいたら賞味期限が三日過ぎていた。コーンパンとレーズン食パン、最後まで生き残った意味がなかった。備えたはずのものが、一番あっけなく無駄になる。ちょっと笑ってしまう。
思えば、備えるという行為は、思い通りにならない未来と喧嘩しないための儀式のようなものかもしれない。台風の進路も、風の強さも、自分がどれだけ食パンを買おうと変わらない。それでも買ってしまうのは、変えられないものの前で、せめて何かした、という手触りが欲しいからだと思う。それが無駄になっても、案外悪くない気がしている。
あなたもきっと、この夏から秋にかけて、何度も天気予報を気にしながら過ごしてきたはずだ。傘を持つか迷ったり、洗濯物を取り込むタイミングを計ったり。そういう小さな判断を積み重ねてきただけで、もう十分やっている。
台風は今日も、どこかの海の上で進路を変えているらしい。パンをもう買うかどうか、正直まだ決めていない。備えたのに何も起きなかった夜のことを、少し照れくさく思い出しながら、今日はとりあえず、そのままの空を見ている。
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