9月6日、朝6時14分。ベランダに出ると、空気がいつもと違う手触りをしていた。湿っているのに、どこかさらっとしている。洗濯物を干す手を止めて、なんとなく耳を澄ませてみた。そういえば、と思う。何かが足りない気がした。
しばらく考えて、それが蝉の声だと気づいた。ミンミンでもクマゼミでもなく、あの、ツクツクオーシ、ツクツクオーシと繰り返す、夏の終わりを知らせる声。うるさくて、正直去年までは「まだ鳴いてるのか」と多少うんざりしていたはずのそれが、いつからか聞こえなくなっていた。
いつからだろう、と記憶をさかのぼっても、はっきりした日付は出てこない。8月の終わり頃はまだ確かにいた。窓を開けて仕事をしていたとき、うるさいなと思いながらパソコンに向かっていた記憶がある。あのとき「うるさい」と思っていた自分は、それがもうすぐ終わることを知らなかった。
考えてみれば当たり前のことだ。セミは地上に出てから一週間かそこらしか生きられないと、どこかで聞いたことがある。あの声も、ずっと鳴き続けているわけではなくて、次々に入れ替わりながら鳴っている、いわば夏のリレーだったのだろう。バトンが渡されなくなった瞬間があって、それが、たぶんこの数日のどこかだった。
気づいたのが、いなくなったあとだったということに、少し驚く。うるさいと思っていたときは全力で意識していたのに、静かになったことには何日も気づけなかった。うるさいものは気づきやすくて、静かなものは気づきにくい。当たり前のようで、書きながら「そうか」と思う発見だった。
ベランダの物干しには、まだ半袖のTシャツと、去年買った薄手のカーディガンが並んで揺れている。カーディガンは値札を切っただけで、一度も着ていない。9月に入ったら着るつもりだったのに、なんだかんだ暑くて出番がなかった。ハンガーにかけたまま、季節に置いていかれている感じがする。
麦茶のポットも、この夏何本か買い替えた。氷を入れすぎて薄くなった麦茶を飲んだ夜もあったし、逆に濃すぎて渋かった夜もあった。ちょうどいい濃さの麦茶に出会えた日は、片手で数えるほどしかなかった気がする。それでも冷蔵庫にあるだけで安心する飲み物だった、ということに、なくなる前に気づけただろうか。いや、これもきっと、あとで気づくのだろう。
夏が終わるとき、いつも何かの終わりに立ち会えないまま終わってしまう。花火大会の最後の一発も、結局見逃していたし、蝉の最後の一匹がどこで鳴きやんだのかも、誰も見ていない。区切りは向こうから静かにやってきて、こちらが気づく前に通り過ぎていく。それを寂しいと思うのか、それとも、そういうものだと思うのか、自分でもまだ決められない。
職場では、9月に入ってから「今期の目標」だとか「下半期の計画」だとか、そういう言葉が急に増えた。夏の終わりと関係なく、カレンダーだけが先に進んでいく。蝉が静かになったことにも気づけない自分が、下半期の計画をきちんと立てられるのかというと、正直あやしい。それでも会議室では、うんうんとうなずいている。
夜、湯船にお湯をはった。もう熱いお湯につかりたい気温になってきている。湯気の向こうで、ふと、あの蝉の声がまだ耳の奥に残っている気がした。実際には聞こえていないのに、記憶のほうが勝手に再生している。人の耳というのは、案外いい加減にできているらしい。
無理に季節の変わり目に意味を持たせなくてもいいのだろう。蝉がいつ鳴きやんだかを正確に知らなくても、カーディガンをまだ着ていなくても、麦茶の濃さが毎回違っても、それで何かが損なわれるわけではない。ただ、静かになったことに気づいたという、それだけの出来事として、今日はそれを書いておく。
あなたも今日、蝉の声のことなんて気にせず、ちゃんと一日を過ごしただろう。それでいい。気づかなかったことを悔やむ必要はない。気づいた今、ベランダの空気が少し違うと感じられたなら、それだけで十分な気がする。
来年の夏、また同じ蝉の声を聞くはずだけれど、それは今年鳴いていた蝉とは、たぶん違う蝉だ。同じ夏は二度と来ないし、同じ静けさも二度とは来ない。そう考えると、ちょっとさびしいような、でもそれくらいでちょうどいいような、よくわからない気持ちになる。
とりあえず、カーディガンだけは今週あたりから着てみようと思う。値札を切ったまま一年放置するのは、さすがに気の毒だから。
季節は待ってくれないけれど、追いつこうとしなくてもいい。気づいたときに気づいた分だけ、拾っていけばいいのだと思う。今日のところは、それくらいでいい。
← 記事一覧にもどる