19時40分、近所のスーパーの入口に、去年より少ししなびた笹が立てかけてあった。買い物かごを持ったまま、足だけがそっちに向いてしまう。レジ袋のガサガサいう音より先に、笹の葉が乾いた風にこすれる音が耳に届く。かさ、かさ、と、雨の匂いのしない乾いた音だった。
短冊は五色。赤、黄、青、白、紫。マジックが紐で結んであって、もう半分くらいインクが薄い。300円で買った紙のはずなのに、そこに何か書かなければいけない気がしてくるから、七夕というのは不思議な行事だと思う。誰に頼まれたわけでもないのに、急に「あなたの願いは」と聞かれている気分になる。
小学生の頃はよかった。マジックのキャップを外す前から答えが決まっていた。「サッカーがうまくなりますように」「お母さんの病気が治りますように」。今思えばずいぶん器の大きい願い事を、鼻をすすりながら書いていた気がする。給食のそうめんに、たしか星形のオクラが浮いていた。あの日の教室の匂いまで思い出せるのに、あの頃の自分がどうしてあんなに迷いなく願えたのかは、もう思い出せない。
マジックのキャップを、今夜も外した。外したところで止まった。何を書けばいいのか、本当にわからなかった。仕事がうまくいきますように、と書こうとして、それは願いというより目標達成シートみたいだな、と手が止まる。健康でありますように、はもう毎年書いている気がする。恋愛は、正直よくわからない。お金は欲しいけれど、短冊に「臨時収入」と書くのは、なんだかお賽銭箱に小銭を投げる感覚と似ていて、気恥ずかしい。
結局、何も書かなかった。白いままの短冊を、笹の隅っこの、あまり目立たない枝にそっと結んだ。誰かに見られたら「あの人、何も書いてない」と思われるだろうか。いや、そもそも誰もそんなところまで見ていない。見ていないのに、自意識だけは短冊の裏に貼りついてくる。
帰り道、コンビニの前で高校生くらいの二人組が笑っていた。片方が「私の願い事、テスト受からなくていいから寝坊しませんように、にしといた」と言って、もう片方が「それもう願いじゃなくて生活習慣の話じゃん」とツッコんでいた。声を出して笑いそうになった。私が数十分かけて書けなかったものを、あの子たちは五秒で、しかもオチまでつけて書いていた。
願い事というのは、書けば書くほど自分の欲張りさが可視化される道具でもある。健康、お金、仕事、恋愛、あと欲を言えば、明日の朝もう少し気持ちよく起きたい。並べてみると、そのどれもが「今のままでは足りない」という前提から出発していることに気づく。……と、ここまで書いて気づいた。足りないと思うから願うのだとしたら、今夜の私はきっと、足りていることにすら気づけないくらい疲れていたのだと思う。
部屋に帰って、買ってきた麦茶を氷なしのままグラスに注いだ。冷たいはずのグラスが、外の空気のせいですぐに汗をかく。7月の夜は、こちらが何もしていなくても、勝手に湿って、勝手にべたつく。エアコンの設定温度は26度にしていたはずなのに、体感はそれより2度くらい高い気がした。
ベランダに出ると、隣の家の窓に、小さな七夕飾りが吊るしてあるのが見えた。折り紙の輪っかを繋げただけの、子どもが作ったような飾り。短冊も何本かぶら下がっていて、遠くて字までは読めなかったけれど、たぶんあの家の子どもは、迷いなく何かを書いたのだろうと思う。うらやましいような、微笑ましいような、少し複雑な気持ちで見ていた。
願い事が書けない夜があってもいい、と自分に言い聞かせてみる。けれど本当のところ、書けないことにちょっとした罪悪感も残っている。せっかく短冊があるのに、せっかく笹があるのに、何も書かなかった自分を、少しだけ持て余している。わかっているのに、うまく手放せない。たぶんこれは今夜だけの話じゃなくて、いろんな場面で繰り返している私の癖なのだと思う。
それでも、笹はきっと明日には片づけられて、燃えるゴミの日に静かに出されていくのだろう。今夜の、あの乾いた葉ずれの音も、二度と同じようには聞こえない。毎年七夕は来るけれど、去年の七夕と今年の七夕は、似ているようでいてまったく違う夜だ。そう思うと、何も書けなかったことすら、今夜だけの記録のような気がしてくる。
あなたも今日、暑いなかよく仕事に行ったし、よく帰ってきた。それだけで、じゅうぶん願い事をひとつ叶えたようなものだと思う。短冊に何も書けなくても、笹の下を素通りしなかった、そのことのほうがずっと大事な気がする。
来年もきっと、同じように短冊の前で手が止まるのだろう。それでいい。書けたらラッキー、書けなくても、笹はまた来年も立っている。そのくらいの気軽さで、この蒸し暑い季節をやり過ごしていければ、それでじゅうぶんだと思う。
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