九月の朝、ベランダに出したら、葉っぱの先が半分くらい透明になっていた。光にかざすと向こうの物干し竿がうっすら見えるくらいで、最初はそういう品種なのかと思った。でも三日前まではちゃんと緑色の、ぷっくりした葉だったはずだ。手のひらに乗せてみると、いつもの弾力がなくて、ゼリーを少し溶かしたみたいにやわらかい。
この多肉植物は、八月の頭にダイソーで買った。三号鉢に入って108円。名前は覚えていない。というか、もともと名札にカタカナの品種名が書いてあったけれど、レジ袋に入れる時に濡れて滲んで読めなくなり、そのままになっている。だから家では「あれ」とか「ベランダの子」とか呼んでいる。
買うときに店員さんが「多肉植物は乾燥に強いので、水は控えめでいいですよ」と言ったのを、今でも覚えている。覚えているのに、実行できていなかった。土が乾いているのを見ると、なんだか可哀想な気がしてしまって、毎朝じょうろで水をやっていた。じょうろは重くて、水を入れるとプラスチックの持ち手がしなる。その重さが、なんとなく「ちゃんと世話をしている感」を持たせてくれていた気がする。
多肉植物は、葉っぱの中に水を溜め込む仕組みらしい。だから雨の少ない土地でも生きていける。ということは、こちらが水をやらなくても、勝手にちょうどいい分だけ蓄えて生きていくということだ。それを知っていたはずなのに、朝の習慣として水やりが組み込まれてしまうと、もう「あげないと不安」の方が勝ってしまう。
土に触れると、湿っているどころか、ぬかるんでいた。表面はさらさらなのに、指を入れると中はずっと湿っている。水はけの良い土のはずなのに、毎日足していれば追いつかない。溜まった水は逃げ場を失って、根のあたりでずっと滞留していたのだろう。多肉植物にとってそれは、たぶん、息苦しかったと思う。
溶けた葉は、下の方から始まっていた。土に近い、いちばん古い葉から透明になり、やがて茶色く縮んでいく。上の方の若い葉はまだ元気そうに見えたので、これは全滅ではないかもしれない、と思いながら茶色くなった葉を指でつまんで取り除いた。ぽろっと簡単に取れて、その簡単さがかえって切なかった。
水をやりすぎていた、という単純な話なのに、なんだか自分のことを見ているような気持ちになった。だろうか。いや、こういうときに「自分に重ねる」のは書き手の悪い癖かもしれない。ただの植物の話として終わらせてもよかった。それでも、毎朝これでもかと水をあげていた自分の手つきを思い出すと、心当たりがないわけではない。
仕事でも、頼まれてもいないのに手を出しすぎることがある。相手のためだと思ってやったことが、実は相手を息苦しくさせていたと、あとから気づくことがある。これも似たようなものかもしれない。良かれと思ってやったことの分量が、ちょうどよかったかどうかは、たいてい後になってからしかわからない。
とはいえ、じゃあ次からは水を控えよう、と素直に思えるかというと、それも違う気がする。土が乾いているのを見ると、やっぱり心配になる。多肉植物は平気だとわかっていても、じょうろを持つ手が止まらない。わかっているのに、できない。それはたぶん、これからも続く。
コオロギの声が、九月に入ってからベランダでよく聞こえるようになった。虫の声を聞きながら溶けた葉を片付けていたら、隣の部屋のベランダから洗濯物を取り込む音がした。知らない誰かの、静かな生活音。こういう何でもない時間に、意外とほっとする。
枯れた葉を全部取り除いたあとの鉢は、少しさびしい見た目になった。上の方に残った若い葉たちだけが、まだ緑色でぷっくりしている。これがちゃんと育つのか、それとも根までやられていて後日ぜんぶ駄目になるのか、今はまだわからない。しばらく様子を見るしかない。
もう一鉢買い足そうか、少し迷っている。今度こそ水やりの間隔をあけようと思う。思うけれど、たぶんまた同じことをする気もしている。乾いた土を見て、我慢できずにじょうろを持ってしまう自分が、もうだいたい想像できる。それを直せないまま、また育てるのだと思う。
溶けた葉をベランダの隅にまとめて、燃えるゴミの日まで置いておくことにした。透明になった葉は、乾くとぺらぺらの薄い紙みたいになる。触るとかさっと音がして、その軽さが、水を溜め込んでいたころの重みとぜんぜん違う。同じ葉なのに、ここまで違う手触りになるのが、少し不思議だった。
この一鉢のことをここまで書いておいて、結局何かがきれいに解決したわけではない。多肉植物は今日もまだ、透明な葉を数枚抱えたまま、ベランダの隅に置いてある。それでも今朝は、水やりを一日休んだ。休んだだけで、なんだか自分を褒めたい気持ちになったのだから、我ながら現金なものだと思う。
あなたも今日、誰かのために何かをやりすぎたかもしれない。それが正解だったかどうかは、今はまだわからなくていい。溶けた葉のことも、明日の水やりのことも、いったん置いておいて、今日はもう寝てしまってもいい。九月のベランダはまだ、虫の声がうるさいくらい続いている。
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