9月11日、木曜日、午前10時23分。洗濯物を干すためにベランダの窓を開けたら、太鼓の音が飛び込んできた。ドン、ドン、ドドドン。続いてマイクを通した声が、少し割れて聞こえる。「もう一回!今のはバラバラでした!」隣の小学校で、体育祭の練習をしているらしかった。
そういえば今年もこの季節が来たのか、と思う。毎年同じ時期に同じ音が聞こえてくるのに、毎年「あ、そうか」と初めて気づいたような顔をしてしまう。忘れっぽいのか、それとも一年ってそのくらいあっという間なのか。たぶん両方だ。
行進曲らしきメロディーが流れている。トランペットかコルネットか、金管の音がところどころ裏返っていて、リコーダーの高音がひとりだけ半拍遅れている。先生の声がまた飛ぶ。「せーの!」でも揃わない。何度やっても、どこかの列がずれる。
その音を聞きながら、洗濯物を干す手が止まった。物干し竿にかけたバスタオルの端から、水が一滴、ベランダのコンクリートに落ちる音がした。日差しはもう真夏の白さではなく、少し黄色みがかっていて、風には土埃と、どこかの家の味噌汁の匂いが混ざっていた。
自分が小学生だったころも、こんなふうに何度もやり直していた気がする。太陽の下、二百人くらいの子どもが「前へならえ」をして、それでも列は曲がる。担任の先生が笛を吹いて、また最初から。汗が背中を伝って、砂埃で喉がイガイガして、それでも「もう一回」がずっと続いた。
揃わないのが、当たり前だった。あのころは。誰も「なんで自分だけできないんだろう」と本気で落ち込んではいなかった気がする。ずれている列を見て、先生も苦笑いしていたし、隣のクラスの列も同じくらいずれていた。
でも今はどうだろう。揃わないことに、いちいち引っかかる。仕事の資料が、隣の席の人よりまとまっていないと落ち込む。インスタで見た誰かの部屋は、床にものが何も落ちていない。自分の部屋を見渡すと、脱いだままの靴下が三日前からソファの下にある。……いや、正確には四日前かもしれない。数える気にもならない。
揃っている暮らしというものが、どこかにあるらしい。少なくとも画面の中にはある。でも実際に会って話す友達で、完璧に揃っている人を、自分はまだ一人も知らない。みんなどこかしら、洗濯物をたたまずに椅子にかけている。たぶん。知らないけど。
太鼓の音がまた聞こえてきて、ふと高校の文化祭の準備を思い出した。なぜ今それを思い出すのかは自分でもわからない。クラスの出し物の看板を、放課後に何人かで描いていて、誰かがペンキをこぼして、床に大きな青いシミができた。あのシミ、結局最後まで消えなかった。文化祭が終わったあとの掃除の時間に、みんなでその上に机を置いて隠した。今思えば、ずいぶん雑な解決だった。
揃えようとして揃わなかったものは、隠すか、笑うか、諦めるかしかないのかもしれない。それでも文化祭は開催されたし、体育祭は今日も練習が続いている。列がずれたまま、音楽は途中で止まらない。むしろ、止まらないから練習になる。
……と、ここまで書いて気づいた。自分が今日欲しかったのは「揃えるコツ」ではなくて、「揃わなくても音は流れ続ける」という、ただそれだけの事実だったのかもしれない。わかっていたつもりで、実は全然わかっていなかった。
外ではまた「もう一回」の声がして、今度はさっきよりも少しだけ揃って聞こえた。少しだけ、だ。完璧ではない。でも確かに、さっきよりはよかった。誰かがそう感じたのか、先生の声のトーンが少しやわらかくなった気がした。
洗濯物はまだ半分しか干せていない。ベランダの床には水滴が乾かないまま残っている。それでいい、とまでは言い切れない。言い切れないけれど、今日はもう、これでいいことにする。あなたも今日、ちゃんと窓を開けて外の音を聞いた。それだけで、じゅうぶんだったんじゃないだろうか。
体育祭の音楽は、たぶん来週も再来週も同じ時間に流れる。揃わない列のまま、本番の日が来る。それでも子どもたちは走るし、観客は拍手をする。揃っていることより、続いていることのほうが、もしかしたら大事なのかもしれない。まだよくわからないけれど、そう思うことにした午前だった。
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