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スイカを一玉買ったら、冷蔵庫に入らなかった

8月のはじめ、近所のスーパーの青果コーナーで、わたしはスイカの前で立ち止まっていた。698円。大玉、と札に書いてある。まだ切られていない、緑と黒の縞模様のかたまりが、平台の上にごろごろと転がっていた。

買うかどうか、少し迷った。一人暮らしの冷蔵庫に、これが入るかどうかも考えずに。でも隣に、地元の八百屋のシールが貼ってあるのを見つけてしまって、それだけで手が伸びた。実家の縁側で、母が半分に切ったスイカを塩を振って出してくれた、あの夏のことをふと思い出したからだ。理由なんて、だいたいそんなものだ。

レジ袋がみしみしと伸びる音を聞きながら、駅まで15分の道を歩いた。腕が抜けそうになる。両手で抱えるように持ち替えて、汗だくで帰り着いた頃には、もう達成感のようなものすら感じていた。買い物というより、荷物を運搬した、という感覚に近かった。

そして家に着いて、冷蔵庫の扉を開けて、わたしは固まった。入らない。どう傾けても、野菜室の高さが足りない。卵のパックとドレッシングの瓶とチューブの調味料を全部よけて、それでもまだ、あと3センチが足りなかった。

結局、洗面器に水を張って、氷を大量に投入して、そこにスイカを浮かべることにした。冷房の効いた部屋の隅に置かれた洗面器の中で、緑の球体がゆらゆらと揺れている。なんだか、家の中に小さな池ができたみたいだった。これはこれで、悪くない。

一玉のスイカは、一人で暮らす部屋には大きすぎる。買う前からわかっていたはずなのに、毎年同じことをしている。わかっているのに、できない。それでも買ってしまうのは、たぶん夏という季節そのものを、一玉ぶん抱えたくなるからなんだろうと思う。

翌朝、包丁を入れた。真ん中にすっと刃を通すと、パカッと乾いた音がして、赤い断面が現れた。種が黒い点々として散らばっていて、その並び方に、毎年なぜか少し感動する。冷やしすぎていたのか、切り口から水滴がテーブルにぽたぽた落ちた。

三日目になっても、まだ半玉が残っていた。朝食にスイカ、昼にもスイカ、おやつにもスイカ。もう果物というより、日課になっていた。冷蔵庫を開けるたびに、緑色のかたまりがそこにいて、ちょっとした同居人みたいな気配すらあった。

さすがに食べきれないと悟って、隣の部屋の人に少し分けることにした。玄関先で「よかったら」と皿を渡して、向こうも「わあ、ちょうど食べたかったんです」と受け取ってくれた。それだけのやりとりなのに、なんだか気恥ずかしくて、扉を閉めたあと少し照れ笑いをしてしまった。

種を、つい数えてしまう癖がある。子どもの頃、縁側でひとつずつ皿の端に並べていたのと同じことを、31歳になった今もやっている。数えて何になるわけでもないのに、手が勝手に動く。……と、ここまで書いて気づいたのだけれど、これはもしかしたら、食べる速さを自分でゆるめるための、無意識の作業だったのかもしれない。

冷凍庫を開けたら、先週買ったスイカバーの箱がまだ半分残っていた。生のスイカを毎日食べているのに、アイスのスイカも欲しくなる。矛盾している。矛盾しているのはわかっているのだけれど、暑い日にはどちらも欲しい、それだけのことだ。

一玉を食べきる頃には、蝉の声が少しだけ乾いた音に変わっていた。同じ夏はもう二度と来ないのだと、皮だけになった最後のひとかけらを見て思う。来年もきっと同じ698円のスイカを買って、同じように冷蔵庫に入らなくて、同じように洗面器に浮かべるのだろう。それでいいのだと思う。

あなたも今日、暑い中をどこかまで歩いただろうか。それだけで、もう十分によくやったと思う。

冷蔵庫にきちんと収まる暮らしをしなくちゃ、と思うことがときどきある。でも、はみ出すものがあってもいい。むしろ、はみ出したぶんだけ、誰かと少し分け合う理由ができる。それも悪くない夏の使い方だと、今は思っている。

来年もまた、迷わず一玉を買う気がしている。冷蔵庫の寸法なんて、そのときにまた考えればいい。

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