改札を出たら、ホームの上の空がもうオレンジを通り越して紺色だった。時計を見ると17時15分。つい先週までこの時間はまだ、電線の影が長く伸びるくらいの明るさがあったはずなのに、今日はもう、向かいのホームの看板の文字が読みにくいくらい暗い。ああ、またこの季節が来たのか、と思う。毎年来るとわかっているのに、毎年同じ速さで驚かされる。
ホームの蛍光灯がつきはじめていて、電車がすべりこんでくると、窓ガラスに自分の顔がうっすら映った。疲れた顔だった。照明の色のせいか、普段より少し黄色っぽく見える。こういうとき、自分の顔を見たくて見ているわけではなくて、ただガラスがそこにあって、暗いから映ってしまうだけなのだと思う。見たくないものほど、暗がりの中でよく見える気がするのは気のせいだろうか。いや、気のせいかもしれない。
小学生の頃、下校時刻を知らせるチャイムが5時に鳴った。夏はまだ外が明るくて、チャイムが鳴ってもだらだら校庭に残っていられたのに、今くらいの季節になると、チャイムと同時くらいに空が暗くなり始めて、妙に心細い気分で自転車をこいだ記憶がある。大人になった今も、結局あのときと同じ心細さを、駅のホームで味わっている。進歩がないと言えばそれまでだけれど、進歩しなくていい種類の心細さもあるのかもしれない。
会社を出る時間は変わっていない。定時に帰れた日なら18時前には駅に着く。それだけのことなのに、外が暗いというだけで、なんだかすごく遅くまで働いた気になってしまう。時計を見て、ああまだこんな時間か、と思うのと、時計を見て、もうこんな時間か、と思うのとでは、同じ18時でも体感がまるで違う。光の量で自分の疲労度を測っているところが、自分にはあるらしい。
今日はコートの下にヒートテックを着て、靴下も厚手のものを重ねて出てきた。なのに電車の中はまだ冷房が効いていて、汗をかいた。暑いんだか寒いんだかわからない恰好で、吊り革につかまりながら、これはもう完全に自分の見込み違いだと思う。季節の変わり目に完璧な服装をできた試しがない。毎年必ずどこかで一枚多いか一枚足りない。これに関してだけは、本当に成長していない気がする。
ホームに降りると、改札の向こうにコンビニの灯りが見えた。その灯りが、やけに暖かく見える日がある。別に特別な照明でもなんでもない、いつもの蛍光灯なのに、外が暗いというだけで、あの四角い光の箱がすごく心強いものに見えてくる。肉まんの蒸気の匂いがふわっと流れてきて、買う予定はなかったのに、気づいたら列に並んでいた。今日くらい、あったかいものを一個くらい自分に許してもいいだろう。
歩きながらふと、金木犀の匂いがもうしなくなっていることに気づいた。先週までは駅からマンションまでの道のどこかで必ず香っていたのに、今日は何も匂わない。いつ終わったのかもわからないまま、もう終わっていた。匂いというのはそういうもので、終わりをちゃんと見送らせてくれない。気づいたときにはもう、次の季節の匂いに変わっている。さびしいとまでは言わないけれど、何か忘れ物をしたような感覚だけが残る。
マフラーはまだ出していない。クローゼットの奥のどこかにあるはずだけれど、探すのが面倒で、首元を手で押さえながら歩く。こういう中途半端な準備不足のまま冬に突入していくのが、ここ数年の自分のパターンだ。わかっているのに毎年同じことを繰り返す。わかっているのに、できない。それでも、まあ、死にはしない。首が少し寒いだけだ。
家に着いて電気をつけると、部屋の中の暗さにまた少し驚く。朝出るときはまだ明るかった部屋が、帰ってきたらすっかり夜になっている。当たり前のことなのに、毎日律儀に驚いている自分がいる。日照時間というのは、こちらの都合も気分も聞かずに、勝手にどんどん短くなっていく。こちらが「もう少し待って」と言ったところで、太陽は何も答えずに沈んでいく。そういう、相談の余地のないものに囲まれて毎日を過ごしているのだと、改めて思う。
あなたも今日、暗くなった道をちゃんと歩いて帰ってきた。それだけで、今日という日は十分だったと思う。17時15分に驚くことは、きっとこれからも何度もある。驚くたびに、少しずつ上着が厚くなっていって、気づけば完全に冬の恰好になっている。そうやって季節は、こちらの覚悟が決まるのを待たずに、勝手に進んでいく。待ってはくれないけれど、置いていかれるわけでもない。歩いていれば、ちゃんと季節の中にいる。
湯船にお湯をためて、少し長めにつかった。外が暗くなるのが早いぶん、家の中で過ごす時間が長くなる。それを損だと思うか、得だと思うかは、その日の気分次第だ。今日はたぶん、得だったことにしておく。明日の17時15分も、きっとまた暗い。わかっていても、また少し驚くのだろう。それでいいのだと思う。驚かなくなったら、それはそれでさびしい気もするから。
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