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23時、インスタを閉じて湯を沸かした

23時、インスタを閉じた。開こうと思って開けた記憶はない。親指が勝手に開いて、勝手にスクロールして、気づいたら40分たっていた。誰かの旅行、誰かの結婚報告、誰かの手料理、誰かの犬。閉じたあと、部屋の天井がやけに低く感じられた。

別に、悪いことは何も起きていない。誰にも何も言われていないし、嫌なものを見たわけでもない。むしろ、きれいなものばかり見ていた。なのに、うっすらと削られている。この削られ方には、まだちゃんとした名前がついていないと思う。

とりあえず、湯を沸かした。何か飲みたかったわけではない。手持ちぶさたの行き先として、やかんを火にかけた。

コンロの火は、夜に見ると妙にきれいだ。青い輪の上で、やかんの底がチチッと小さく鳴る。台所の夜は、何も更新されない。誰も投稿しないし、誰にも見られていない。さっきまで640人の近況の中にいた身には、その「何も起こらなさ」が、ちょっとした温泉だった。

やかんが鳴るまでの数分は、スマホを見ない。いつからか、そういう自分ルールがある。たった2、3分だ。でもその2、3分の静けさのほうが、さっきの40分より、時間として濃かった気がする。40分は、思い出せる中身がほとんどない。

ためしに、さっきの40分で何を見たか思い出そうとしてみた。覚えていたのは、犬が階段を滑り落ちる動画が面白かったこと、それだけだった。もう一度見たくなって探したが、見つからなかった。タイムラインの40分は、そういう作りになっている。面白かったものにすら、二度と会えない。

SNSに並んでいるのが、その人の人生のいちばんいい場面だけだということは、知っている。旅行の初日の晴れた空は載るけれど、最終日の雨と、帰りの満員電車は載らない。私も載せない。お互いさまだ。わかっている。わかっているのに、比べてしまう。わかっていることと、平気なことは、別なのだ。

白状すると、一度、ミュートにした相手のページを、わざわざ検索して見に行ったことがある。ミュートしたのは私だ。見に行ったのも私だ。何をやっているんだろう。あの夜の自分の親指の動きだけは、いまだに説明がつかない。

ついでに言うと、ストーリーというやつは、見たことが相手に伝わる仕様になっている。あの足あと機能で、いったい誰が幸せになっているのだろう。見たいけれど見たことは知られたくない、という人間の複雑さを、あの仕様は少しも汲んでくれない。汲んでくれないので、私は深夜の閲覧を何度か思いとどまった。その点だけは、感謝している。

通知を全部切った時期もある。切る前は、世界から取り残される気がして怖かった。切ってみたら、誰も気づかなかった。私の返信を今か今かと待っている人は、思っていたよりずっと少なかった。それは少しさびしくて、そして、かなり楽だった。

一度、寝る前にスマホを機内モードにして朝まで放置してみたことがある。翌朝の未読は7件だった。そのうち5件はアプリからのお知らせで、人間からは2件。しかもどちらも、急ぎではなかった。私が眠っているあいだ、世界は思っていたよりずっと静かだった。

この前、フォローしている人数を数えたら、643人いた。そのうち、顔と名前がすぐ一致する人を数えてみたら、40人くらいだった。ということは私は毎晩、よく知らない600人ぶんの人生のハイライトを浴びていたことになる。そんなの、削られて当たり前かもしれない。

思えば、学生の頃、友達の近況というのは月に一度くらい、電話か教室で聞くものだった。「最近どう」「まあまあ」。情報量はその程度で、それで友情は普通に続いていた。あの更新頻度のほうが、たぶん人間の心臓には合っていた。今は、まあまあどころではない解像度で、640人の「最近」が毎晩流れ込んでくる。心臓のほうは、あの頃のままなのに。

お湯が沸いた。ほうじ茶をいれて、湯呑みを両手で持つ。じんわり熱い。画面の中の誰かのハワイの海より、この湯呑みのほうが、確実に熱い。当たり前のことなのに、その晩はそれが妙に大事なことに思えた。

ほうじ茶の湯気が、顔にふわっと当たる。香ばしい匂いがして、少しだけ祖母の家を思い出した。祖母の家には、SNSと呼べるものは仏壇の前の集合写真くらいしかなかった。あの写真は何年経っても更新されないが、誰も文句を言わなかった。

だったらSNSをやめればいいのでは、と自分でも思う。…やめないのだ。友達の近況が嬉しい夜も、本当にあるから。削られる夜と、あたたまる夜が、同じアプリから来る。矛盾している。矛盾したまま、付き合い方だけ、少しずつ変えていくしかない。

私のやり方は、たいしたものではない。疲れたと気づいたら、閉じる。心がざわつく相手は、罪悪感を捨ててそっとミュート。そして閉じたあとの手持ちぶさた用に、湯を沸かす。閉じるだけだと、手が寂しくてまた開いてしまうから、手に湯呑みを持たせておく。それだけだ。

一度、思い切ってフォローを整理しようとしたこともある。643人を前に、1時間かけて、外せたのは3人だった。もう会わない人でも、外すのには小さな情がいる。あの夜わかったのは、この643人はたぶん来月も643人のままだ、ということだった。それでいい。棚の整理と違って、人の名前は、多少ほこりをかぶったままでも困らない。

今夜、誰かの投稿にうっすら削られたあなたへ。あなたの今日は、投稿されなかっただけで、ちゃんとあった。証拠の写真が一枚もなくても、あなたが今日をやり過ごしたことは、事実として、あった。それで十分だと思う。

湯呑みを持ったまま、窓の外を見た。向かいのマンションには、まだ3部屋、灯りがついていた。あの部屋の誰かも、たぶん今ごろ何かをスクロールしている。指の動きまで見える気がする。おつかれさまです、と心の中でだけ言って、カーテンを閉めた。

タイムラインは、明日には全部流れていく。あの眩しかった誰かの夜も、643人ぶんの週末も、来週には誰も覚えていない。流れていくものは、流れていくのに任せることにする。私の手元には、まだ半分残った、ぬるくなりかけのほうじ茶がある。

湯呑みを洗って、寝る。インスタは、たぶん明日も開く。開いてしまったら、また閉じればいい。閉じ方さえ覚えておけば、当分は、なんとかやっていける気がしている。

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