9月13日、近所のスーパーの米コーナーに「新米入荷」の黄色いポップが立っていた。まだ午前中だというのに、その一角だけ人だかりができていて、買い物カゴを持ったまま立ち止まって袋を選んでいる人が三人。私もつられて足を止めた。
5キロの袋を持ち上げると、思っていたより重い。精米日の印字を見ると9月10日とある。まだ数日しか経っていない米。袋の口から、ぬかの匂いが少しだけ漏れている気がした。気のせいかもしれない。米にそんな匂いがするわけないのに、新しいという情報だけで嗅覚まで動かされている。
レジに並びながら、ふと自分の部屋の米びつのことを思い出した。たしかまだ、けっこう入っていたはずだ。それなのに私は、新米のポップを見た瞬間、何も考えずにカゴに入れていた。ここまで書いて気づいたけれど、これはたぶん米の話ではない気がする。
家に帰って米びつのふたを開けると、案の定、半分近く残っていた。目盛りのシールはとうに曇っていて、線がどこにあるのかもよくわからない。いつ買った米だったか、記憶にない。二袋前か、三袋前か。とにかく「今ではない誰か」が買った米が、まだそこにある。
古い米を使い切ってから新しい米に移る。それが正しい順番だということは、わかっている。わかっているのに、新米のポップの前ではその順番のことをきれいに忘れてしまう。新しいものは、いつも「今すぐ」という顔をして立っている。古いものは黙って米びつの底にいるだけだから、つい後回しにされる。
こういうのは米に限らない気がする。読みかけの本が三冊あるのに、本屋で気になる新刊を見るとレジに向かってしまう。着倒していないTシャツが引き出しにあるのに、セールの棚をつい覗いてしまう。古いものを大事にできない人間なのだろうか。いや、大事にしていないわけではない。ただ、目の前の新しさに気を取られやすいだけだ、と言い訳のように自分に言っておく。
米びつの古い米は、別に悪くなっているわけではない。虫がわいているわけでもないし、匂いが変わっているわけでもない。ただ「新しくない」というだけの理由で、少し肩身が狭そうに見える。棚の奥のほうに置かれた米袋を見ていたら、なんとなくそれが自分と重なって見えた。新しい何かが入ってくるたびに、少しずつ隅に押しやられていくもの。
その晩、古い米だけで炊いてみた。炊飯器のふたを開けると、湯気の向こうに、いつもと同じ白さの米があった。当たり前だけど、味は変わらない。むしろ、慣れた分だけ炊き加減がちょうどよかった気さえする。新しいものだけがいいわけではないのだ、と、米一合で偉そうなことを思う自分に少し笑ってしまう。
新米は結局、袋のまま戸棚の奥にしまった。米びつの中の古い米を使い切ってから、開けようと決めた。決めたそばから、たぶんそう長くは持たないだろうという予感もある。何かのはずみで、また新しいほうに手が伸びてしまう気がする。それでいい、とまでは言えないけれど、それが自分だということはもう知っている。
仕事も似たようなところがある。今のやり方にまだ慣れていないうちから、もっと新しいやり方、もっと効率のいい方法、という情報が目に入ってくる。乗り換えたほうがいいのかもしれない。いや、今のままでも別に困ってはいないかもしれない。答えが出ないまま、結局は今日も同じやり方で仕事を終えた。それだけのことなのに、なぜか少し疲れる。
古い米にも精米日はあった。ただ、その日はもう過ぎてしまって、誰も気にしなくなっただけだ。私たちの毎日にも、そういう「もう誰も気にしなくなった始まりの日」がいくつもあるのだろう。それはさびしいことでもあるし、別に悲しむようなことでもない気もする。ただ時間が過ぎた、というだけの話だから。
米びつの目盛りは、結局そのまま曇らせておくことにした。次に米を買うときに、どうせまた読めないままカゴに手を伸ばすだろう。新しいものを見て気持ちが動くこと自体は、たぶん悪いことではない。ただ、その手前にまだ半分残っている古いものがあることを、たまに思い出せたらいい。それくらいでちょうどいい気がしている。
新米のポップの前で立ち止まったあなたも、今日はちゃんと台所に立った。それだけで十分だと思う。
古い米は、あと何合分あるだろう。数えてはいないけれど、たぶんもう少しで空になる。空になったら、戸棚の奥の新米を出す。それだけの、小さな順番。守れるかどうかは、正直まだわからない。わからないまま、今日も米びつのふたを閉めた。
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