9月4日、夕方6時過ぎのスーパーで、シャインマスカットが1980円で並んでいた。まだ夏の値段が抜けきらないうちに、秋の果物が棚に混ざってくる。ポップには丸い字で「皮ごと食べられます」と書いてあって、その下にもう一枚、少し小さく「種なし」とも添えてあった。至れり尽くせりだな、と思いながらかごに入れた。
家に帰って、房ごと水にくぐらせる。粒が28個あった。数える意味はなかったけれど、なんとなく数えてしまう夜だった。一粒つまんで、そのまま口に入れる。パキ、というより、ぷつ、という感触。皮が歯にあたって、少しだけ渋みのようなものが舌の奥に残る。まずくはない。まずくはないのだけれど、指が勝手に次の一粒の皮に爪を立てていた。
気づいたら、私は剥いていた。皮ごと食べられます、と書いてあったのに。テーブルの上に、薄緑色の小さな皮が七枚、八枚と積み重なっていく。誰に見られているわけでもないのに、少し恥ずかしいような気持ちになった。せっかく品種改良されて、皮ごと食べられるようになったぶどうを、わざわざ手間をかけて剥いている自分。時代に追いついていない、という感じがした。
SNSでは、シャインマスカットを皮ごとまるごと頬張る動画をよく見る。ぱくっと一口で、種もなく皮もなく、ただ甘さだけが残る。ああいう食べ方をする人たちを、私はどこかで眩しく見ている。効率がいい。無駄がない。手も汚れない。それに比べて自分は、皮を剥くという、誰にも頼まれていない作業にわざわざ時間を使っている。ぶどう一粒に対して、そこまでする必要があるだろうか。いや、必要なんてそもそも、ない。
会社でも似たようなことがある。資料はテンプレートを使えばいい、返信はコピペで十分、会議はチャットで済ませればいい。効率化、という言葉が、この一年でずいぶん身近になった気がする。悪いことだとは思わない。実際、助かっている場面も多い。ただ、たまに、剥かなくていいものまで自分の意思で剥いてしまう瞬間があって、それを咎められているような気分になることがある。丁寧、という言葉が、時々そのまま「遅い」と同義に扱われる。
皮を剥きながら、小学生のころ祖母の家で食べたぶどうを思い出した。デラウェアという小粒の品種で、種があって、皮も口の中で分けて出さなければいけなかった。祖母は縁側に座って、種と皮を新聞紙の上にぺっぺっと出しながら食べていた。あの手間そのものが、夏休みの時間の使い方だったように思う。急ぐ理由が、あのころにはそもそもなかった。
今のぶどうは、種もなく皮も薄い。手間をかけずに済むように、誰かがずっと品種を掛け合わせてきた結果がこの一房なのだと思うと、剥いてしまう自分が少し申し訳なくもなる。せっかく便利にしてもらったのに、わざわざ不便なほうを選んでいる。矛盾しているな、と思う。それでも指は皮を剥き続けていて、頭で分かっていることと、体がしたいことが、この夜もやっぱり噛み合わない。
……と、ここまで書いて気づいた。私は別に、皮ごと食べられないわけではない。ただ、剥いたときの、あの薄い皮が指先からするりと離れる感触が、単純に好きなだけなのかもしれない。効率とか時代とか、そういう大きな話にする必要すらなかったのかもしれない。剥くのが好き。それだけのことを、わざわざ「追いついていない」と自分を責める材料にしていた。
皮を全部剥き終えたころには、テーブルの上に薄緑色の山ができていた。それを見て、少しおかしくなった。皮ごと食べれば一瞬で終わる作業に、私は15分近くかけている。効率という言葉から一番遠いところに、今夜の私は立っていた。それでも粒はちゃんと甘くて、それでいいじゃないか、とも思う。
窓の外では、まだ夏の名残みたいな生ぬるい風が網戸を揺らしていた。9月に入っても、日中はまだ半袖で過ごせる日が多い。それでも夕方6時にはもう外が薄暗くて、季節はちゃんと動いているらしい。剥いた皮の山も、甘かった粒の記憶も、今夜かぎりのもので、明日また同じ房を買っても、同じようには食べられない。
剥く派か、剥かない派か。そんな二択で自分を測る必要は、たぶん最初からなかったのだと思う。誰かの動画のようにぱくっと食べられなくても、皮を一枚一枚剥いていくその時間ごと、味わっていたのだと今は思う。手間をかけることは、遅れていることと同じではない。
あなたも今日、きっとどこかで、剥かなくていいものを剥いていたはずだ。誰にも見られていない、小さな手間のかけ方を。それを恥じる必要はない、と、種のないぶどうを前に、種のあった時代を思い出しながら書いている。
皮ごと食べられる時代になっても、皮を剥く自由くらいは、まだ残っていていいはずだ。今夜のシャインマスカットは、結局最後の一粒まで剥いて食べた。テーブルの上の皮の山を片付けながら、それでよかったのだと、静かに思った。
← 記事一覧にもどる