正午12時23分、スーパーの駐輪場でサドルに手を置いたら、思わず声が出た。熱いというより、痛い。触れた指先がじんと赤くなるような、あの感じ。気温は表示で34度とあったけれど、アスファルトの照り返しを足すと体感はもう2、3度は上乗せされている気がした。
日陰を探して自転車を押していく。駐輪場の端、電柱の影がちょうど斜めに落ちているあたりに、すでに二台の自転車が寄り添うように停まっていた。持ち主は見えない。たぶんもう店の中で、冷房に当たりながら牛乳の値段を見比べているのだろう。
その日陰の幅は、目測で40センチあるかないか。自分の自転車を入れる隙間としては、正直ぎりぎりだった。それでも私は、隣の自転車のハンドルにぶつからないよう、少しだけ角度をつけてねじ込むように停めた。誰に許可を取ったわけでもないのに、なんとなく「お邪魔します」という気持ちになる。
しばらくして、また一台増えた。今度は持ち主がいた。日傘をたたみながら「あ、ここしか空いてなくて」と誰にともなくつぶやいて、私の自転車のすぐ横にハンドルを滑り込ませた。私は何も言わず、少しだけ自分の自転車を前に寄せた。それだけで、三台がぎゅっと身を寄せ合うような形になった。
不思議なもので、日陰の奪い合いというのは起きない。灼熱の炎天下だったら誰かが早い者勝ちで陣取って終わりなのに、日陰の下では皆、無言でちょっとずつ体を斜めにする。譲るというほど大げさでもない、ただ「詰める」だけの動作。それだけで、知らない三人分の自転車がひとつの影の中におさまってしまった。
日陰というのは誰のものでもないから、分けやすいのだろうか。いや、違うかもしれない。誰のものでもないからこそ、本当は独り占めしたくなるはずだ。それなのに、なぜか駐輪場の日陰だけは、皆すんなり分け合ってしまう。理由はよくわからない。わからないまま、ただその光景が妙に気持ちよかったということだけが残る。
小学生の頃、体育館の水飲み場に長い列ができていたのを思い出す。蛇口は二つしかなくて、順番を待つ間、床の冷たさに頬をつけたくなるくらい暑かった。あのときも誰も並び方に文句を言わなかった。ただじりじりと日陰と同じように、体を詰めて待っていた。あの列の記憶と、今日の駐輪場の記憶が、なぜだか同じ引き出しに入っている。
買い物を終えて外に出ると、日陰の位置は少しずれていた。電柱の影は太陽の角度に合わせて、さっきよりも右に10センチほど動いている。私の自転車のサドルは、また律儀に日なたへとはみ出していて、案の定、腰を下ろす前に手のひらで二度、様子見のタップをする羽目になった。
サドルカバーというものを、去年の夏に買った。もこもこしたクマの顔がついていて可愛いけれど、正直なところ涼しさにはほとんど貢献していない。それでも手放せないのは、可愛いから、というだけの理由だ。実用性のなさを可愛さで押し切る、という生き方が、意外と嫌いではない。
帰り道、日陰から日なたへ、また日陰へと、自転車で渡り歩くようにして走った。日陰に入るたびにわずかに体温が下がる感覚があって、その一瞬だけのために、遠回りしたくなる。効率で考えたら馬鹿げているけれど、この暑さの中では、その数秒の涼しさのほうがよほど価値がある気がした。
争わない、ということについて、うまく言葉にできた試しがない。頭ではわかっている。日陰は取り合わなくていい、譲り合えばみんな入れる、そんなことは駐輪場でだって証明済みだ。それなのに、仕事の話になると、なぜか私は誰かより先に、誰かより多く、を無意識に数えてしまう。わかっているのに、できない。それでも、駐輪場の日陰くらいは、争わずに済んだ。それでいいことにする。
家に着いて、玄関で汗を拭きながら、ふとあの三台の自転車のことを考えた。もう誰かが乗って、それぞれの場所に散っていっただろう。あの日陰も、あの並び方も、二度と同じようには再現されない。明日また駐輪場に行けば、違う三台が、違う角度で寄り添っているはずだ。それだけのことなのに、少しさびしいような、でもそれでいいような、変な気持ちが残った。
あなたも今日、暑い中をよく歩いた。日陰を探して、ちょっとだけ遠回りしたかもしれない。それだけで、もう十分な気がする。争わなくていい場所は、探せば案外あちこちにある。今日のところは、それだけ覚えていれば十分だ。
← 記事一覧にもどる