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玄関で蝉の抜け殻を踏んでしまった

7月14日、朝6時52分。玄関のドアを開けて、いつもの一歩を踏み出したら、足の裏でぱりっと音がした。乾いた、でも湿気を含んだような、なんとも言えない音だった。見下ろすと、蝉の抜け殻がひしゃげていた。

踏んでしまった、と思うより先に、ああ今年もこの季節が来たのか、という感覚のほうが先に立った。抜け殻というのは不思議なもので、割れても血も出ないし、痛そうな顔もしない。ただ形が少し崩れて、地面に馴染んでいくだけだ。踏んだ私だけが、なんとなく気まずい気持ちで会社に向かうことになる。

抜け殻はもう空っぽなのに、脚の一本一本、背中の割れ目の形まで、ちゃんと蝉の形をしている。中身がないのに形だけ残っているものを、私はこれ以外にあまり知らない。強いて言うなら、金曜の夜に飲みきったチューハイの缶が、翌朝もまだ缶の形をしているくらいだろうか。中身のあるなしと、形の保たれ方は、案外関係がないのかもしれない。

蝉は、土の中に何年もいて、地上に出てきてからはだいたい一週間かそこらしか生きられないらしい。正確な日数は蝉に聞いてみないとわからないけれど、少なくとも私が知っている限り、地上での蝉の時間は驚くほど短い。羽化そのものも、夜中に始まって数時間で終わってしまう、静かで忙しい作業だ。誰にも見られずに、殻を破って、羽を伸ばして、朝が来る前に飛べるようになっていなければならない。

それを思うと、朝の玄関先で踏まれた抜け殻というのは、ある意味では仕事をやりきったあとの姿でもある。もう用済みになった殻。次のステージに進んだあとの、置いていかれた入れ物。なのに私はその上をうっかり踏んで、ちょっとだけ申し訳ない気持ちになっている。変な話だ。用済みのものに気を遣うなんて。

この時期、私は毎朝同じような足取りで駅まで歩く。汗ばんだ首筋に、風がないと余計に暑さがまとわりつく。蝉の声はもう7時前からわんわん鳴っていて、正直うるさいと思う日もある。うるさいと思いながらも、鳴き声が止む秋がいつか来ることも、なんとなくわかっている。今だけの音だと思うと、うるさささえ少しだけ惜しくなる。……と、ここまで書いて、去年の私はこの時期どうしていたか、まったく思い出せないことに気づいた。毎年同じ暑さを過ごしているはずなのに、去年の7月の記憶がほとんど残っていない。

思えば、蝉の一生でいちばん長い時間は、地面の下にいる時間だ。何年も、暗くて何も見えない土の中で、じっとしている。地上に出てきてからの騒がしさは、その長い時間に比べればほんの一瞬にすぎない。私たちが「蝉の季節」と呼んでいるのは、蝉にとってはむしろ人生の最後の、いちばん短い章なのかもしれない。

そう考えると、今がんばっている時間というのも、案外そういうものなんじゃないだろうか。長い準備期間があって、それに比べたら本番はあっという間で、しかもその本番の終わりには、もう抜け殻みたいになってしまう自分がいる。会議室の椅子に座ったまま、頭は空っぽで、でも形だけはちゃんと座っている、あの感じ。

がんばるのをやめられたらいいのに、と思う。思うのに、7時のアラームは今日も鳴って、私は同じ道を歩いて、同じ電車に乗る。わかっているのに、できない。それでも、それでいいんじゃないかという気もしている。蝉だって、地面の下にいる何年かのあいだ、早く出たいと焦っていたかどうかは誰にもわからない。もしかしたら、案外のんびり構えていたのかもしれない。

抜け殻を踏んでしまったあの朝、私はしばらくその場に立ち止まって、ひしゃげた殻を見ていた。踏んだことを謝りたいような、でも謝る相手はもうどこかに飛んでいってしまったような、変な気持ちだった。結局、何をするでもなく、また歩き出した。あなたも今日、朝からちゃんと歩いてここまで来た。それだけで、もう十分な気がする。

殻を残していくものと、殻さえ残さずに消えていくものと、この世にはいろいろあるらしい。麦茶を作って、ラジオ体操の音を遠くに聞きながら、私はまた同じ夏を繰り返している。同じに見えて、たぶん同じ夏は一度もない。去年の蝉と今年の蝉が別の蝉であるように。

抜け殻はしばらくそのまま、玄関の脇に転がっていた。片付けようかとも思ったけれど、結局そのままにしておいた。誰かがまた踏むかもしれないし、風で飛んでいくかもしれない。それでいい。全部きれいに片付けなくても、夏はちゃんと進んでいく。

今日もどこかで、誰かが殻を破って、誰かがその殻を踏んで、そういうことが特に意味もなく重なっていく。それだけの話だ。オチも教訓もなくて、ただ朝、玄関でぱりっと音がした。それだけのことを、私はしばらく覚えていようと思う。

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