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秋刀魚、半身だけ買って帰った

18時40分、スーパーの鮮魚コーナーは煌々と明るくて、そこだけ夜がまだ来ていないみたいだった。氷の上に秋刀魚が並んでいる。銀色の腹が照明を受けて、ちかちかと光る。今年もこの季節が来たか、と思いながら値札を見て、ちょっと固まった。一尾498円。半身パックは198円。

去年はたしか一尾280円くらいだった気がする。気がする、というのは正確に覚えているわけではなくて、なんとなく「安かったな」という記憶の手触りが残っているだけなのだけれど、それでも498円という数字は、秋刀魚に対して払う金額として、こう、腑に落ちない感じがあった。秋刀魚は庶民の魚のはずだった。少なくとも私の中では、そういうことになっていた。

しばらく秋刀魚コーナーの前で立ち尽くす。後ろから来たエコバッグのおばあさんに、すみません、と道を譲る。譲りながら、私はまだ一尾買うか半身にするか決めかねていた。人生の重大な決断みたいな顔で秋刀魚を見つめる自分が、ちょっとおかしい。でも本当に迷っていた。

結局、半身を買った。198円の、骨に沿って開かれた身。かごに入れる瞬間、なんとなく敗北したような気持ちになったのはなぜだろう。半分でいいじゃないか、一人暮らしなんだから、と自分に言い聞かせながらも、どこかで「本当は一尾食べたかった」という声が消えない。

家に帰って、グリルに半身を並べる。魚焼きグリルのアルミホイルに脂が落ちる音を聞きながら、換気扇を強にする。秋刀魚を焼くとき、部屋じゅうに匂いがつくのが嫌で昔は避けていたけれど、最近はもうその匂いごと季節だと思うようになった。カーテンにしばらく残る、あの少し焦げた匂い。

焼き上がった半身に、すだちを搾る。骨がないぶん食べやすいけれど、身が薄いぶんあっという間になくなる。ものの数分で皿の上には骨と皮だけが残った。ああ、これで今年の秋刀魚は終わり、みたいな寂しさが一瞬よぎる。半身なのに、まるごと一尾食べたときと同じ速さで、幸福も一緒に消えていく気がした。

秋刀魚は不漁だとか、海水温がどうとか、そういう話をニュースで見た覚えはあるけれど、正直そのあたりの事情はよくわかっていない。わかっていないのに、値札の前で「今年は高いな」とつぶやく。人間というのは、理由がわからなくても不満だけは持てる生き物らしい。

そういえば、去年の9月はどうだったか思い出そうとしても、あまり出てこない。何を食べて、何をしていたのか。覚えているのは、たぶん今年と同じように暑さと涼しさの間をうろうろしていたことくらいだ。半袖のまま歩いていたら急に肌寒くなって、慌ててカーディガンを羽織った日があったような、なかったような。

9月というのは、いつも中途半端な月だと思う。まだ蝉が申し訳程度に鳴いていて、でも夕方になると空気の匂いが変わっている。半袖と長袖が両方クローゼットから出しっぱなしになっていて、どちらもしまえない。秋刀魚の値段もきっとそのくらい、まだ夏の名残と秋の気配のあいだで揺れているのかもしれない。……と、ここまで書いて、それはただの言い訳かもしれないと気づいた。単純に高いのは高いのだ。

半身だけ買うというのは、なんというか、生活のサイズを自分に合わせて調整する行為なんだと思う。一尾買って残すより、半身をきれいに食べきるほうがいい。頭ではわかっている。わかっているのに、丸ごとの秋刀魚が並ぶ棚の前を通るたびに、ちょっとだけ胸がざわつく。全部を手に入れなくていいと知っているのに、全部欲しがる気持ちがどこかに残っている。

これは秋刀魚に限った話ではないのだろう。仕事も、人付き合いも、休みの日の過ごし方も、本当は半身くらいでちょうどいいのに、つい一尾ぶん頑張ろうとしてしまう。頑張った分だけ、皿の上にはあっという間に骨だけが残る。それを毎回味わっているのに、また次も一尾を選びたくなる。学習しない生き物だなと、自分にツッコミを入れたくなる。

翌朝、ゴミの日に秋刀魚の骨を出しながら、ふと思った。半身で足りたなら、それでよかったんじゃないか。足りない、と感じることと、実際に足りていないことは、案外別物なのかもしれない。お腹はちゃんと満たされていたし、味も悪くなかった。文句を言っていたのは、値札を見た瞬間の私の気分だけだった気もする。

あなたも今日、値段を見て一瞬迷って、それでも自分なりの答えを選んで帰ってきたのだと思う。一尾でも半身でも、選んだ方が今日のあなたにとって正解だったんだろう。

秋刀魚は今年も、たぶんこのあとまだ何度か食卓に上るはずだ。次は一尾で買うかもしれないし、また半身かもしれない。そのときの財布と気分次第で、それでいいんだと思う。全部揃えなくても、半分でちゃんとお腹は満たされる。骨と皮だけが残った皿を見ながら、そのくらいの塩梅で、今年の秋刀魚シーズンをやっていけたらいいなと思っている。

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