7月14日、月曜日の21時すぎ。麦茶を作ろうと製氷皿に水を入れて冷凍庫を開けたら、氷を置く場所がなかった。あったのは保冷剤だった。四角いもの、細長いもの、うさぎの絵がついたもの。数えていないけれど、たぶん十枚以上。びっしりと敷き詰められていて、まるで冷凍庫という土地の下に、見えない地層ができているみたいだった。
いつからこんなに増えたのか、まったく思い出せない。ケーキ屋の保冷剤、ふるさと納税で届いたホタテの保冷剤、会社の暑中見舞いでもらったゼリーの保冷剤。差出人はバラバラなのに、冷凍庫の中では誰のものかもわからないまま、ただ静かに冷えて並んでいる。誰かの厚意の残骸が、私の家で無言のまま同居している感じ、と書いてみて、少し大げさすぎたなと思う。
捨てればいいのに、捨てられない。これは前から思っていたことで、たぶん私だけではないと思う。「いつか使うかもしれない」。この言葉の魔力はすごくて、実際に使う場面を具体的に想像できていなくても、なんとなく効いてしまう。うちわ、紙袋、輪ゴム、保冷剤。この四つは、たぶん日本中の家で似たような密度で溜まっている気がする。根拠はまったくない。私の家がそうなだけかもしれない。
実際に保冷剤を使う日を数えてみると、7月と8月であわせて3回くらいだと思う。熱があるとき、首の後ろに当てるとき。あとは冷えピタが切れて代用するとき。それだけのために、冷凍庫の四分の一近くを差し出している。氷が作れないくらいまで。麦茶用の氷が作れなくて、結局コンビニで氷を買った日もあった。氷を買うために家を出るとき、自分の冷凍庫の使い方について、少し考え込んでしまった。
タオルに包んで首筋に当てると、最初の数秒だけひやっとして、そのあとはすぐにぬるくなる。あの短い涼しさのために、これだけの保冷剤を抱え込んでいるのかと思うと、なんだか割に合わない気もしてくる。でも、その短い数秒が、真夏の午後にはたしかに救いになる瞬間もあって、だから簡単に否定もできない。
先週の土曜、思い立って冷凍庫を整理した。使わなそうなものから捨てよう、そう決めて手に取ったのに、結局どれも捨てられなかった。うさぎの絵の保冷剤は、実家から送られてきた桃についていたものだった。もう桃はとっくに食べ終わっているのに、絵柄だけが冷凍庫に残っている。捨てるという行為が、なんだか実家との細い糸を切るような気がして、手が止まった。我ながら大げさだと思う。ただの保冷剤なのに。
たぶん、保冷剤を捨てられないんじゃなくて、「いつか使うかもしれない自分」を捨てられないんだと思う。備えている自分、無駄にしない自分。そういう自分でいたい気持ちが、四角い氷のかたちをして冷凍庫に積み上がっている。そう書いてみて、ちょっと立派すぎる結論だなと自分でも思う。実際はただ面倒くさくて捨てていないだけかもしれない。いや、たぶんその両方だ。
整理整頓の本を読むと、だいたい「使わないものは手放しましょう」と書いてある。わかっている。わかっているのに、できない。冷凍庫の保冷剤も、クローゼットの着なくなった服も、スマホのアプリの通知バッジも、たぶん同じ理屈でずっと溜まっていく。手放すことのほうが、増やすことより何倍も気力を使う。これは家事のなかでいちばん納得のいく真理だと思う。
そういえば、去年の夏も同じことを思った気がする。冷凍庫を開けて、うわ保冷剤だらけだ、と思って、少し整理して、また同じだけ溜まっていく。まるで毎年決まった時期に来る夕立みたいに。梅雨明け前後になると必ずこの光景に出会う。同じ夏はもう二度と来ないはずなのに、冷凍庫の風景だけは毎年おなじに見える。それがちょっとおかしいし、少しさびしくもある。
この夏も、保冷剤はたぶん減らない。むしろ増えるだろう。お中元シーズンだから。それでいいのだと、今は思うことにしている。使わなくても、そこにあるだけで安心する道具というのが、暮らしにはいくつかあっていい。防災バッグの中身とか、常備薬とか。保冷剤もその仲間に入れてしまえば、罪悪感はだいぶ軽くなる。
この記事を書きながら、麦茶はまだ冷えていない。氷がないから常温で飲んでいる。それはそれで、少しぬるくて優しい味がする。完璧に冷たくなくても、麦茶は麦茶としてちゃんとおいしい。冷凍庫がぎゅうぎゅうでも、生活はちゃんと回っている。そう考えると、保冷剤の山も、悪くない光景に見えてくるから不思議だ。
今夜もどこかで、誰かが冷凍庫を開けて、同じようにため息をついているかもしれない。あなたも今日、暑いなかよくここまで一日をやり過ごした。冷凍庫がぱんぱんでも、部屋が片付いていなくても、それは今日をちゃんと生きてきた証拠のようなものだと思う。捨てられないものは、無理に捨てなくていい。保冷剤も、いつかの自分も、しばらくはそのまま冷やしておけばいい。
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