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ラムネの瓶、ビー玉が取れなかった

スーパーの入り口近く、レジ横の小さな棚に、瓶のラムネが並んでいた。7月の夕方6時すぎ、蛍光灯の下でその瓶だけがやけに涼しそうに見えて、気づいたら手に取っていた。会計を終えて、レジ袋がずしりと重かった。缶やペットボトルよりも、瓶は明らかに「持っている」という感じがする。それだけのことに、なぜか少し満足していた。

家に帰って、冷蔵庫でよく冷やしてから栓を開けた。ビー玉が「トン」と落ちる、あの独特な音がして、白い泡がシュワッと瓶の口まで上がってくる。指先に伝わるガラスの冷たさと、微炭酸の弾ける感触。これだけで、もう7割くらい満足してしまう自分がいる。安上がりな人間だと思う。

問題はそのあとだった。飲み終わったあと、瓶の中でコロコロ音を立てているビー玉を見て、ふと「これ、取り出せるんじゃないか」と思ってしまったのだ。子どもの頃、近所の駄菓子屋のおばちゃんが「頑張れば取れるよ」と言っていた記憶がうっすらあって、それを鵜呑みにしたまま大人になっていた。

瓶をひっくり返し、振り、揺すり、指を突っ込もうとしてみたが、当然口の部分は玉より狭くできていて、入るわけがない。そういう構造なのだと、頭ではわかっている。わかっているのに、23時を過ぎても台所の電気の下で瓶を振り続けている自分がいた。

何をやっているんだろう、と我に返る瞬間があった。ビー玉のために平日の夜を溶かしている30代というのも、なかなか間抜けな絵面だと思う。誰かに見られていたら、通報一歩手前の光景だったかもしれない。

取れないビー玉を見ながら、これは最初から「取れない」ということ自体が仕組みなのだと、ここまで書いてようやく気づいた。あの瓶の中のビー玉は、飲み終わったあとも瓶の中で転がり続けるために存在していて、外に出るためのものではなかった。取れないことに文句を言うのは、そもそも見当違いだったのかもしれない。

仕事でも、似たようなことがよくある。もう少し頑張れば動くはずだと思って、力を入れ続ける。企画が通らない、返信が来ない、評価が上がらない。それは本当に「頑張れば動くもの」なのか、それとも最初から瓶の中のビー玉みたいに、そういう構造の中にあるものなのか。区別がつかないまま、とりあえず振ってしまう。振れば何か変わる気がしてしまう。

ここまで書いて、また少し立ち止まる。「取れないものは取れないと諦めろ」という話にしたいわけでもない。実際、世の中には粘って粘って、最後にビー玉ならぬ何かがコトンと取れることだって、たぶんある。ただ、7月のあの夜の私に必要だったのは、粘ることではなく、瓶を置くことだった気がする。

瓶を流しの隅に置いたまま、しばらく放置した。数日経って洗おうとしたとき、瓶の中でビー玉がまたコロンと軽い音を立てた。取れないままのビー玉に、なぜか少しほっとしている自分がいた。取れなかったことが、負けたことにはならないらしい。

冷蔵庫を開けると、まだ2本、ラムネが残っていた。今夜また1本、栓を開けて、あの音を聞く。取れるはずのないビー玉を、今度は最初から取ろうとせずに、ただ転がる音だけを聞いてみようと思う。それだけで、外の蝉の声よりも涼しい気持ちになれる気がする。

あなたも今日、何かをちゃんと振ってみたはずだ。動かないとわかっていても、動くかもしれないと信じて力を入れた瞬間が、きっとあったと思う。それは間抜けなことでもなんでもなくて、ただ夏の夜にビー玉を振っていたのと同じくらい、人間らしいことだったんじゃないだろうか。

取れなかったビー玉は、今日も瓶の中で、行き場のないままコロコロしている。それでいいのだと思う。取れないものを抱えたまま、栓を開けて、冷たい泡を飲む。7月の夜は、まだしばらく続く。

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