8月14日、朝5時58分に目が覚めた。目覚ましより早い。カーテンの隙間から入る光がもう白くて、これ以上寝ても得しない気がして、サンダルをつっかけて外に出た。まだ26度くらいで、今日いちばん涼しい時間だとわかっているから、少しもったいながって歩いた。近所の公園を通りかかったとき、あれ、と思った。何もない。音楽が鳴っていない。
子どものころ、この時間のこの場所には、必ずラジオ体操の音楽が流れていた。あのイントロ、テレレレッというやつ。今も脳のどこかにそのまま残っていて、鳴っていないのに勝手に脳内で再生された。公園の入り口には誰もおらず、ベンチが一つ、朝露で光っているだけだった。セミがもう鳴き始めていて、それだけがこの時間の主役だった。
あのころ、6時25分から6時40分までの15分間のために、眠い目をこすって出かけていた。首から下げた紐に、厚紙のカードをぶら下げて。カードには31個の四角い枠があって、来た日にはそこに判子を押してもらう。青いインクの、少し薬くさいような匂い。あの匂いを、いま思い出そうとしてもうまく思い出せない。においの記憶というのは不思議で、思い出そうとした瞬間に逃げていく。
皆勤すると最後にシールがもらえた。参加賞は鉛筆が2本と消しゴム1個。それだけのために、8月のほとんどの朝を早起きしていたのだから、子どもの労働単価は驚くほど安い。今の自分の時給を思うと、ちょっと笑ってしまう。
正直に言うと、私は皆勤したことが一度もない。寝坊して、パジャマのまま走って、着いたときには体操が半分終わっていたこともある。判子を押してくれるおばさんが、遅れてきた私を見て「まあ、来ただけえらい」というような顔で、枠の外にちいさく押してくれたことがあった。あの判子は、たしか少しはみ出していた。
あの判子は、体操ができたかどうかの証明じゃなかったんだと思う。ちゃんと腕を上げたか、脚を伸ばしたかなんて、誰も見ていなかった。ただ「来た」ということだけを、誰かが認めてくれる仕組みだった。来ただけでよかった、というのは、大人になったいま考えると、けっこう贅沢な基準だったんじゃないだろうか。
不思議なことに、体はいまでも覚えている。会社の健康診断の待合室で、順番待ちの間になんとなく肩を回していたら、隣の同僚に「それラジオ体操第一の3番目の動きですよね」と言われたことがある。言われて初めて気づいた。体は覚えているのに、押してくれる人はもういない。押してもらえるかどうかを、確認する場所すらもうない。
実家の押し入れに、あのカードがまだ入っているはずだ。夏に帰ったら探してみようか。いや、探して何になるんだろう。判子はもうとっくにインクが薄れて、四角い枠は色あせて、ただの厚紙になっているだけだ。それでも、あれを見つけたら、たぶん少し嬉しくなる自分がいる気がする。
去年、実家の近くを歩いたとき、あの公園にラジオ体操の音楽が流れていなかった。今年もない。近所の人に聞いたわけではないから正確なことはわからないけれど、たぶんもうやっていないんだと思う。子どもの数が減ったのか、担当してくれる大人がいなくなったのか、理由はいくつも想像できるけれど、答え合わせをする気にはならない。ただ、あの朝の時間が、どこかでそっと終わっていたことに、少しさびしくなった。
……と、ここまで書いて気づいたけれど、私はさびしいと思っているわりに、自分の子どもをラジオ体操に通わせたいとは特に思っていない。矛盾している。懐かしいのに、続けさせたいわけではない。この矛盾を、うまく説明できる言葉をまだ持っていない。
判子を集めることに必死だった子どものころの自分は、今ではもう判子がなくても、朝の公園を歩けるようになった。誰にも「来た」と認めてもらわなくても、自分の足で歩いて、セミの声を聞いて、それだけで一応、朝を過ごせている。それは進歩なんだろうか。いや、進歩というよりは、ただ判子がいらなくなっただけかもしれない。
それでも、ふと思う。誰かに「今日も来たね」と、あの厚紙に判子を押すみたいに、軽く認めてもらいたい気持ちは、たぶんまだ完全には消えていない。認めてもらう場所を、大人はどこに持てばいいのか。会社の評価はそれとは違う気がするし、SNSのいいねもたぶん違う。答えは出ない。出ないまま、公園を出た。
あなたも今日、よく起きた。それだけで十分だと、あの朝の判子は言っていた気がする。何ができたかより、来たという事実だけを見てくれる場所は、大人になるとめっきり減る。だからせめて、自分でそれくらいは自分に押してあげてもいいのかもしれない。うまくできない日でも、はみ出した判子でも、来たなら来たでいい。
公園を出るころには、もう空気が変わっていた。涼しい時間はほんの30分くらいで、あっという間に終わる。セミの声がだんだん大きくなって、今日も暑くなるぞという合図みたいに聞こえた。家に帰って、麦茶を一杯飲んで、それでこの日の「来た」はもう十分だなと思った。
判子はもうもらえない。もらえないままでいい。あの夏の朝は戻らないけれど、戻らないままでも、今日という朝はちゃんとここにある。それだけで、たぶん悪くない。
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