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二百十日、結局なにも起きなかった

9月1日、7時のニュースだった。トーストの焼ける匂いがキッチンに漂うなか、気象予報士が「今日は二百十日です」と言った。立春から数えて210日目、昔から台風が来やすいとされる日。天気図には、九州のあたりにぐるりと丸い雲の渦が描かれていて、その丸が明日か明後日にはこちらに近づくらしかった。

二百十日という言葉は、小学校の社会科見学で聞いた気がする。稲穂が実る大事な時期に台風が重なりやすいから、昔の人はこの日を恐れて、豊作を祈る祭りをした――そんな話だった気がするけれど、正直うろ覚えだ。うろ覚えのまま、毎年9月1日になるとこの言葉だけが頭のどこかで点滅する。

その日の午前中、私はベランダに出て、物干し竿を下ろした。プランターのミニトマトも部屋の中に避難させた。網戸に養生テープを貼るほどではないけれど、なんとなく窓の鍵を二度確認した。手のひらに触れた網戸はまだ夏の熱を持っていて、風はほとんどなかった。空は白っぽく、遠くでカラスが一羽、いつもより高い声で鳴いていた。

スマホの台風情報アプリを、その日は何度も開いた。等圧線の等高線みたいな模様と、進路予想の丸いコーン。あのコーンの形、いつ見ても宇宙船が着陸するときの予測範囲みたいで、少し呑気な気持ちになる。呑気になっている場合ではないのに。予報円は少しずつ更新されて、そのたびに私は「明日の夜が山場かな」と、誰に言うでもなく呟いていた。

結果から言うと、台風は思ったよりずっと東側を通って、私の住む街には雨すらろくに降らなかった。夜になっても風は弱いままで、ベランダに出しっぱなしだったサンダルすら飛ばなかった。ニュースでは別の地域の川の水位を映していて、そちらは本当に大変そうだった。うちの窓ガラスは、ただ静かに、いつも通りの夜景を映していた。

拍子抜けした。あんなに物干し竿を下ろして、ミニトマトを部屋に運んで、鍵を二度確認したのに。あの物干し竿を下ろす動作にかけた47秒は、いったい何だったのだろう。ちゃんと計ったわけではないけれど、体感で47秒くらいだった気がする。何も起きなかった日に限って、そういう妙に具体的な数字だけが記憶に残る。

以前、本当に台風で失敗したことがある。ベランダの植木鉢を出しっぱなしにしていて、翌朝見たら見事に割れていた。土がベランダ中に散らばって、隣の部屋の人にも謝った記憶がある。あのときの反省があるから、私は今も台風の前になると必要以上に身構えるのかもしれない。備えというのは、案外こういう小さな失敗の記憶から育つものらしい。

何も起きなかった夜、私はふと思った。備えたことが無駄だったわけじゃない、と誰かに言われたいような、自分でそう思いたいような、どちらともつかない気持ちだった。備えても何も起きないことのほうが、実際は多いのだと思う。それでも備えるのをやめられないのは――わかっているのに、と、ここまで書いて気づいた。わかっているのにやめられないのは、たぶん備えることそのものが、自分を落ち着かせるための儀式になっているからだ。

台風が逸れたことを喜べばいいはずなのに、少しだけ、拍子抜けした自分にがっかりもしている。誰かが困っているわけでもないのに、身構えていた分だけ気持ちの持って行き場がなくなって、それが部屋の隅にぽつんと立っているような感じがする。この感覚を人に話しても、たぶん「それはよかったじゃない」で終わる話だ。実際、よかったのだけれど。

夜の10時過ぎ、ベランダに出てみたら、下ろしたはずの物干し竿の場所に、虫の声だけが満ちていた。コオロギなのか鈴虫なのか、正直区別がつかないまま、その音を少し聞いていた。台風が来るはずだった空気の中に、いつもと変わらない秋の始まりの音が混ざっているのが、なんだかおかしかった。

あなたも今日、天気予報を気にしながら洗濯物を取り込んだり、傘を余分に持って出たりしただろうか。それだけで、もう十分な気がする。何も起きなかったとしても、備えた時間そのものが消えてなくなるわけではない。ただ、使われなかっただけだ。

翌朝、ミニトマトをベランダに戻した。実は昨夜のうちに二つほど赤くなっていて、特に台風とは関係なく、ただ勝手に熟していた。そのことに少し笑ってしまった。世界は私の心配とは無関係なところで、いつも通りのペースで動いている。

二百十日は、結局私の暮らしの中では何も起きなかった一日として終わった。それでいいのだと思う。何も起きない日を、備えたまま静かに終える。そのことの心地よさを、今年はじめて知った気がする。来年もきっと同じように身構えて、同じように拍子抜けするのだろう。それならそれで、悪くない。

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