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カレンダーの土曜に「無」と書いた

カレンダーの今週の土曜の欄に、「無」と書いてある。予定の名前ではない。何も入れない、という予定だ。書いたのは私だ。書いた本人なのに、見るたびちょっと笑ってしまう。習字みたいな一文字が、飲み会や美容院の予定のあいだで、妙に堂々としている。

「無」に決まるまでには、少し経緯がある。最初は「休む」と書こうとした。でも「休む」は、それ自体がタスクっぽい。次に「予定なし」と書きかけて、予定なしと書いた時点でそれは予定なのでは、と手が止まった。ボールペンを持ったまま30秒考えて、残ったのが「無」だった。一文字なのに、いちばん強い。

手帳のほかの週は、ボールペンの字でそれなりに埋まっている。その中で、「無」と書いた週だけ、まわりに余白がある。余白というのは、隣にぎっしり字が並んでいるから余白に見えるのだと、手帳を眺めていて思った。空白だけのページなら、それはただの白いページだ。

もともと私は、カレンダーの空白が怖いほうだった。予定が詰まっていると安心して、空いていると「何かしなきゃ」と落ち着かない。誰かに誘われれば埋まるし、誘われなければ自分で埋める。展示、映画、勉強会、部屋の大掃除。空白は、埋めるためにあると思っていた。

でも、予定を詰め込んだ週末の翌月曜は、決まって疲れていた。楽しかったのに、疲れている。おかしな話だ。楽しさをこなす作業になっていたのだと思う。休日の思い出はあるのに、休んだ記憶がない。

それで、書いてみたのだ。「無」。最初の「無」の土曜日、目が覚めた瞬間の解放感は、ちょっと忘れがたい。今日は、何もなくていい。誰も待っていないし、どこにも間に合わなくていい。その確認だけして、二度寝した。次に起きたら10時23分だった。

午前中は、ベランダで洗濯物が乾いていくのを、ずっと見ていた。洗濯物が乾く過程は、報告できるようなことが何も起きない。起きないのに、見ていられた。Tシャツの肩のあたりから乾いていくことを、私はあの日初めて知った。知ってどうするのかは、わからない。

ベランダにいると、近所の音がよく聞こえる。どこかの家の掃除機。子どもが自転車のベルを鳴らす音。遠くで布団を叩く音は、そういえば最近めっきり減った。あの音の目録に、意味はひとつもない。ないのだが、平日の耳には一度も入ってこなかった音ばかりだった。

昼は、そうめんをゆでた。テレビをつけたら、知らない街の商店街を中継していた。行ったことのない街のコロッケ屋の行列を、麺をすすりながら眺める。あの時間は何なんだろう。何でもない。何でもないまま、昼が過ぎた。

中継のコロッケ屋には、20人くらいの行列ができていた。並んでいる人たちは、土曜日を「使って」いる。予定を立てて、電車に乗って、暑い中を並んでいる。えらい。私は使っていない。ソファから一歩も動かず、その行列を眺めているだけだ。どちらの土曜も、たぶん正しい。

一度だけ、危ない瞬間があった。手持ちぶさたに耐えかねて、スマホに手が伸びて、気づいたら30分溶けていた。反省して、スマホを本棚の上に置いた。夕方、どこに置いたか忘れて5分探した。「無」の日のいちばん大きな事件が、これだった。

「無」の日は、時間を確認する理由が特にない。何時であっても、次の予定がないからだ。なのに癖で、一日に何度も手首を見た。腕時計は、着けていないのに。空っぽの手首を見て、ああそうか、と思う。この動作を、私は平日に何百回やっているのだろう。

午後は昼寝をした。ソファで、気づいたら1時間半。起きたら16時で、日が少し傾いていた。寝すぎて損した気分と、たっぷり寝て得した気分が、同時に来た。どちらが本心なのか、いまだに決着がついていない。

起きぬけに、冷蔵庫の麦茶をコップに注いで、立ったまま窓の外を見ていた。時間にして10分くらい。何も考えていなかったはずなのに、そのあいだに、頭の中のいくつかの散らかりが勝手に片付いていた。引き出しは、閉めっぱなしでも中身が整うことがあるらしい。仕組みは知らない。

夕方、散歩に出た。目的地はなし。公園の脇を通ったら、蝉の声が上から降ってきて、自販機で炭酸水を買って、飲みながら帰ってきた。以上だ。本当に、以上なのだ。

帰り道、炭酸水のペットボトルの中で、泡が浮かんでは消えるのをしばらく眺めていた。浮かんで、消える。それだけのことが、見ていられる。平日の私なら、この時間でメールを2本返している。どちらの時間が上等かは、決めないでおく。

これは「休んでいる」のだろうか、それとも「サボっている」のだろうか。…と、夜になって考えて、そもそもその区別を誰がつけるんだ、と思い直した。私の土曜日の使い方を採点する審査員は、どこにもいない。いると思い込んでいたのは、私だけだった。

ひとつ、数えてみたことがある。平日の私は、スマホの通知を1日に何十回も見る。正確な回数は怖くて数えていない。「無」の土曜は、夜までで4回だった。4回でも、何も困らなかった。世界は、私が見ていなくても、ちゃんと回っていた。少し拍子抜けするくらいに。

ついでにもうひとつ。その日の歩数は、2,841歩だった。平日の3分の1以下だ。健康アプリはたぶん物足りなそうにしていたが、知ったことではない。歩かない日の脚には、歩かない日の仕事がある。ソファに沈んで、床を踏まないという仕事だ。

もしあなたの先週末が「寝て終わった」のなら、それは失敗した週末ではないと思う。体が正しく請求書を出して、あなたが正しく支払っただけだ。領収書は出ないけれど、ちゃんと精算は済んでいる。

「無」の翌週は、少しだけ調子がいい。月曜の満員電車が、心なしか気にならない。効果は、体感でだいたい水曜まで持つ。木曜あたりで薬が切れて、金曜には次の「無」を数えている。月に一度と決めているが、二度でもいいのかもしれない。まだ、踏み切れていない。

ただ、こういう空白の土曜は、あとから思い出せない。旅行の写真は残るのに、「無」の日は何も残らない。洗濯物と、コロッケ屋の行列と、蝉の声。どれも記録していないから、いつか全部忘れる。忘れてしまうことが少しさびしくて、でも、たぶんこういう日が、生活のいちばん底のところを静かに支えている。

次の「無」は、もう書いてある。月末の土曜だ。それまでの平日は、また予定と通知に追われて過ぎていく。それでいい。追われる日々があるから、「無」の一文字が効く。薬みたいなものだ。効能書きはないが、効くことだけ、体が知っている。

カレンダーの「無」の字を眺めて、今週も生き延びることにする。あなたのカレンダーのどこかにも、小さく書いておくことを、そっとおすすめしておく。ペン一本で書ける、いちばん安い予定だ。

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