← 無理なく

ティッシュを箱ごと抱えて、映画で泣いた

金曜の23時、部屋の電気を消して、ティッシュの箱を膝に抱えて、映画を再生した。泣くとわかっている映画を、わざわざ選んだ。あらすじも結末も知っている。観るのは、3回目だから。それでも今夜、これで泣くと決めて、再生ボタンを押した。

大人になってから、泣く場所がなくなったと思う。職場で泣くわけにはいかないし、友達の前では笑っていたいし、家族には心配をかけたくない。悲しさや疲れは、たいてい飲み込んで、なかったことにする。飲み込んだものが、どこに行くのかは考えないようにしている。

最後に映画以外で泣いたのはいつだったか、思い出そうとしてみた。思い出せなかった。悲しいことが何もなかった数年だったとは、とても思えないのだが。つまり涙のほうが、日常からずいぶん遠くへ引っ越してしまったのだ。住所は、いまや映画の中にしかない。

だから、物語を借りる。自分の人生の悲しみは、直視するとこわい。でも映画の中の誰かのためになら、涙は安心して出てきてくれる。泣いている理由を、登場人物のせいにできるからだ。責任転嫁かもしれない。かまわない。涙に関しては、ずるをしていいことにしている。

映画選びには、ひとつだけ持論がある。「全米が泣いた」と書いてあるやつでは、案外泣けない。泣かせにくる音楽が流れると、こちらの涙は逆にすっと引っ込む。私が泣くのはいつも、宣伝文句に書かれていない、なんでもない場面だ。主人公が黙って洗い物をしているところとか。あれは狙って作れるものなのだろうか。

再生の前に、映画のお供を用意しようと台所を探したら、あったのは柿の種だった。ポップコーンの気分だったのに。仕方なく柿の種を持って戻った。深夜に柿の種をかじりながら泣く準備をしている大人の姿は、誰にも見せられない。見せる予定も、ない。

上映前には、儀式がある。カーテンを閉めて、部屋の電気を消して、スマホを裏返しにして遠くに置く。麦茶をコップに注いで、クッションの位置を直す。要するに、映画館ごっこだ。三十過ぎの人間が金曜の夜にひとりでやることではない気もするが、ごっこ遊びは、たぶん何歳になってもやめなくていい。

泣きどころは、毎回同じ場面で来る。3回目なのに来る。しかも今回は、前より少し早めに来た。その場面の2分前くらいから、もう目の奥が準備を始めているのがわかる。体が場面を覚えているのだ。上映前から泣く態勢に入る観客は、たぶん映画にとってもやりやすい客だと思う。

上映中の中断は、涙に致命的だ。だから通知は全部切る。金曜の23時に私へ電話をかけてくる人間は、現実にはひとりもいないのだが、備えだけは万全にする。城壁を築いてから泣く。誰に攻められる予定もないのに。

1回目のときに学んだことがある。涙の途中でティッシュを取りに立つと、戻ってくる頃には映画と自分のあいだに変な距離ができている。だから箱ごと抱えておく。これは3回の鑑賞で得た、唯一の技術だ。

映画が終わって、鼻をかんだティッシュを数えたら、11枚だった。11枚ぶんの何かが、体から出ていったことになる。何が出ていったのかは、わからない。ただ、悲しい話を観たはずなのに、胸のあたりが妙にすっきりしている。この矛盾の理屈を、私は知らない。調べれば出てくるのだろうが、調べていない。効いているものの仕組みは、知らないままにしておきたい。

泣いたあとは、冷やしたスプーンをまぶたに当てる。目の腫れにはこれが効くと、いつどこで覚えたのか思い出せない民間療法だ。本当に効いているのかも、実は知らない。知らないまま、毎回冷凍庫からスプーンを出している。効能より、この一連の段取りのほうが効いている気もする。

エンドロールは、最後まで流した。誰が照明を担当したのかを確認したいわけではない。あの数分は、映画の世界からこっちの部屋へ、ゆっくり帰ってくるための時間だ。急に電気をつけると、まぶしさで全部が台無しになることも、1回目に学んだ。

エンドロールが終わると、部屋の音が戻ってくる。冷蔵庫の低い唸り、外を通る車、隣の部屋の生活音。現実の音は、映画よりずっと音量が小さい。この静けさに戻ってくる瞬間が、映画一本ぶんの旅の、着地なのだと思う。

これは現実逃避なのだろうか、と考えたことがある。…逃避でいい気がする。逃げた先でちゃんと泣いて、鼻をかんで、ちゃんと戻ってくるのだから、あれは逃避というより避難だ。避難訓練は、定期的にやっておくものと決まっている。

そういえば昔は、爆発する映画ばかり観ていた。車が飛んで、建物が壊れて、主人公が振り向かずに歩く映画。泣ける映画を自分から選ぶようになったのは、ここ数年だ。体が必要とするものが、変わってきたのだと思う。処方箋の中身は、年齢とともに書き換わっていく。次は何を観るようになるのだろう。

最近泣いていないな、というあなたへ。それは冷たくなったのではなくて、泣けないくらい張りつめている期間が続いているだけかもしれない。ゆるむ場所は、映画でも、深夜のラジオでも、古い曲でも、何でもいいと思う。場所さえ見つかれば、涙は自分で出てくる。あれは案外、自力で出口を知っている。

ひとつだけ、切ないことがある。この映画で初めて泣いた数年前の夜の自分を、少しだけ覚えている。あの頃の涙と、今夜の涙は、同じ場面で出たのに、たぶん中身が違う。映画は1秒も変わっていないのに、観ているこちらだけが、変わっていく。次に観る数年後の私は、どこで泣くのだろう。

泣くことは、弱さではなくて、手入れだと思う。溜まったら、流す。流したら、また溜まるまで生きる。それでいい。

ティッシュの箱を棚に戻して、洗面所で顔を洗った。鏡の中の顔は、目が少し腫れていて、われながら間抜けだった。でも月曜の朝の顔は、これでたぶん、ちょっとましになっている。柿の種の残りは、袋を閉じて、次の上映日まで取っておくことにした。

柿の種の袋は、輪ゴムが見つからなかったので、口を3回折って洗濯バサミで留めた。冷蔵庫の上の、定位置に置く。次の上映日がいつになるかは、わからない。溜まったら、来る。それまでは、来なくていい日々が続けばいいと思う。

← 記事一覧にもどる