21時40分、台所の換気扇の音だけが部屋に響いていた。冷蔵庫から麦茶のポットを出して、グラスに注ぐ。氷はさっき製氷皿から出したばかりで、まだ角が鋭い。カラン、と音を立ててグラスに落ちていくのを、なんとなく三個で足りるところを五個も入れてしまった。
一口飲んで、あれ、と思う。薄い。麦茶なのに、麦茶の味がうっすらとしかしない。氷が多すぎて、注いだそばからどんどん溶けていったらしい。せっかく朝からやかんで煮出した麦茶が、たった数分でただの茶色い水になっていく。もったいないな、と思いながらも、そのまま飲み干してしまった。
麦茶は毎年、8月に入るとだいたい週に3回くらいのペースで作っている。今年はもう11回も煮出した気がする。数えていたわけではないけれど、やかんの内側についた茶渋の量でなんとなくわかる。あの茶色いシミは、真面目に生きてきた証拠のようにも見えるし、ただの汚れとも言える。
薄くなった麦茶をコップの底からのぞくと、氷はまだ半分以上残っていた。グラスの外側には汗のような水滴がびっしりついていて、テーブルに小さな水たまりを作っていた。ティッシュで拭こうかどうしようか迷って、結局そのままにした。どうせまた濡れるからだ。
こういうとき、いつもの自分なら「次はちゃんと氷の数を数えてから入れよう」と決意する。決意するのだが、翌日にはまた同じように五個くらい放り込んでいる。学ばない人間だなと自分でも呆れるけれど、氷の数を毎回律儀に数える人生というのも、それはそれで息苦しい気がする。
薄い麦茶を飲みながら、ふと、これは麦茶だけの話じゃないなと思った。仕事でも、力を入れすぎて、注いだそばから薄まっていくようなことがある。丁寧に準備した資料が、会議の空気に溶けて跡形もなくなる。前の晩に考え抜いた言葉が、当日にはうまく出てこない。濃く煮出したはずのものが、気づけば水っぽくなっている。
……と、ここまで書いて、ちょっと違うかもしれないと思い直した。麦茶が薄くなったのは、べつに誰のせいでもない。ただ氷を入れすぎただけだ。仕事の話とくっつけて意味を持たせようとするのは、私の悪い癖かもしれない。薄い麦茶は、ただ薄い麦茶として飲んでしまえばよかったのだ。
それでも捨てられないのは、あの薄まっていく感じに、身に覚えがありすぎるからだと思う。頑張って淹れたものが、環境や状況にどんどん薄められていく。それは麦茶の温度差のせいでもあり、こちらの入れすぎのせいでもあり、はっきりと原因をひとつに絞れない。絞れないまま、ぼんやり薄い液体をすする夜がある。
台所の窓の外では、まだ蝉が鳴いていた。あの声も、8月の終わりが近づくにつれてだんだん数が減っていく。今夜鳴いているこの一匹は、来週にはもういないかもしれない。麦茶と同じで、濃さや量は一定じゃない。今日の一杯は今日だけの濃さで、明日また同じように煮出しても、まったく同じ味にはならない。
そう思うと、薄くなった麦茶をわざわざ嘆く必要もない気がしてきた。氷を入れすぎた自分を責める必要も、たぶんない。次はもう少し氷を減らそうと思っても、また入れすぎる日が来るだろう。それでいいのだと思う。毎回ちょうどよく淹れられる人なんて、たぶんそんなにいない。
グラスの氷はまだ溶けきらずに、透明な角を残していた。私はそれをストローでつつきながら、薄い麦茶をちびちび飲み続けた。味が薄いぶん、なんとなくたくさん飲めてしまう。空になったグラスを見て、これはこれで悪くない飲み方だったかもしれないと思った。
あなたも今日、暑い中をよく歩いたと思う。冷たいものを飲んで、少しでも体を冷やせたなら、それだけで今日はよくやったほうだ。濃く淹れられなかった日があってもいい。薄まってしまった何かがあっても、それを全部飲み干せたなら、それでじゅうぶんだと思う。
麦茶のポットは、また明日、空になる。明日は明日でまた新しく煮出せばいい。氷の数はきっとまた数え間違えるだろうし、それでいい。濃さがそろわないことも、力の入れ具合がうまくいかないことも、生きているとよくあることだ。薄くなった麦茶を飲みながら、今日はそれだけわかった夜だった。
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