9月の第二土曜、午後3時20分。クローゼットの奥から半袖をしまって長袖を出そうとしたら、去年のお気に入りだった紺のシャツに、小さな穴が開いていた。左の肩のあたり、指の先が入るくらいの大きさで、縁がほつれるように白っぽくなっている。
最初は何かに引っ掛けたのかと思った。でも心当たりがない。そもそもこのシャツ、6月にしまってから一度も出していない。ということは、誰にも見られていない場所で、誰にも知られずに、穴が育っていたということになる。育っていた、という言い方も変だけれど、他に言いようがない。
虫の仕業だろう。防虫剤、切らしてたな、と思い出す。去年の秋にホームセンターで買ったやつ、確か春先に「もう匂いしないな」と気づいた瞬間があった。あのとき補充していれば、と思うけれど、あのとき補充していれば、なんてことは大抵、後になってから言えることだ。
穴を指でなぞってみる。生地は思ったよりやわらかく、繊維の目が粗くなっている感じがする。虫が食べたところだけ、少し薄い。食べた、というのも変な表現だけど、実際そうなんだろう。虫にとってはあれが晩ごはんだったわけで、こっちが着るはずだったシャツが、先に別の口に入っていた。
なんだかおかしくなってきて、ひとりで少し笑った。誰も袖を通していないシャツに、誰かが先に袖を通していたようなものだ。いや、袖じゃなくて肩の部分だけど。とにかく、私が忘れている間に、そこにも何かの時間が流れていたということが、妙に生々しく感じられた。
クローゼットの中って、時間が止まっていると思い込んでいた。しまった状態のまま、次に開けるまでは何も起こらない。そう思っていたけれど、そんなわけがなかった。湿気は入り込むし、匂いは移るし、虫だって呼吸している。止まっているように見えるものほど、実は静かに動いている。
…と、ここまで書いて気づいたけれど、これはシャツの話だけじゃない気がする。会わなくなった友達のこととか、放置している資格の勉強のこととか、心のどこかにしまい込んで「そのうち出そう」と思っているものは、大体こうなっているんじゃないだろうか。開けたときにはもう、思っていた形をしていない。
穴の開いたシャツをどうするか、しばらく迷った。捨てる、繕う、それとも見なかったことにしてまた奥にしまう。どれも決めきれなくて、結局、洗濯機の横の椅子の背にかけたまま、その日は終わった。夜、ベランダの網戸越しに虫の声を聞きながら、あの穴を開けた犯人もこの声のどれかだろうかと考えていた。答えは出ない。
翌朝、シャツはまだ椅子にかかっていた。9月の朝の光の中で見ると、穴はやっぱり小さくて、でも昨日より少しだけ大きく見える気がした。気のせいだろうか。いや、気のせいかもしれない。でも一度気づいてしまった穴は、見るたびにそこばかり目がいってしまう。
結局、繕うことにした。裁縫箱を出すのも久しぶりで、針に糸を通すのに3回失敗した。老眼というにはまだ早い年齢のはずなのに、糸の先はやけにぼやけて見える。繕った跡は、お世辞にもきれいとは言えない。でも穴はふさがった。ふさがったというより、なかったことにしたというほうが近い。
繕い終えたシャツを着て、近所のスーパーまで歩いた。肩のあたりを気にしながら歩いていたけれど、誰も見ていないし、誰も気づかない。当たり前だ。穴のことを一番気にしているのは、いつだって自分だけだ。これは服の話にかぎらない気もする。
帰り道、金木犀にはまだ早い時期の、ただの生垣の匂いをかぎながら、来年はちゃんと防虫剤を入れよう、と思った。でも、これは去年も思ったはずだ。去年の私は今年の私に何も伝えられなかったし、今年の私も来年の私に、たぶん同じように何も伝えられない。それでも、思うことはやめない。
虫に先を越されたシャツは、今日も洗濯物と一緒にハンガーで揺れている。穴の繕い跡は、光の当たり方によってはまだ目立つ。それでいい。完璧に直らなくても、着られる。あなたがしまい込んで忘れているものも、きっとそんな感じで、今日もどこかで静かに息をしている。開けたときにどんな顔で会えるかは、そのときになってみないとわからない。それでいいんだと思う。
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