18時40分。仕事帰り、駅前のデパートのショーウィンドウの前で、私は立ち止まってしまった。ガラスに映った自分の顔は汗でてかっていて、シャツの脇のあたりは正直に湿っていた。9月も半ばを過ぎたというのに、この日はまだ26度あって、信号待ちの短い間にも首すじに汗が浮くくらいだった。
そのガラスの向こうで、マネキンはもう長袖を着ていた。しかもカーディガンだった。ベージュの、薄手にも見えるけれど、明らかに「これから来る寒さ」を前提にした一枚。値札には9800円とあって、税込みだと少し違う数字になるんだろうけど、そこまで見る気力はなかった。給料日前の目には、桁じゃなくて色だけが入ってきた。
マネキンには表情がない。当たり前だけど、当たり前のことを改めて思うと妙にさびしい。汗だくの私を、涼しい顔でまったく見ていない。見ていないのに、なんだか先を越された気がした。私はまだ半袖で立っているのに、あちらはもう次の季節に足を踏み入れている。置いていかれた、というほど大げさでもないけれど、置いていかれた、に近い何かがあった。
季節はいつも、こちらの都合を聞かずに先に来てしまう。今、そう書いてみて、なんだか偉そうな一文になった気がする。でも本当にそうとしか言いようがなかった。私の体はまだ夏を引きずっていて、汗腺も、夜のエアコンの設定温度も、何ひとつ切り替わっていないのに、店頭のディスプレイだけが勝手に十月に行ってしまっている。
ガラス越しに見るマネキンの静けさが、少し羨ましかった。彼女たちは疲れない。汗もかかない。衣替えの判断に迷わない。私はといえば、クローゼットの手前半分だけ長袖に入れ替えて、残りは「もう少しあとで」とそのままにしている。中途半端な状態のまま、もう二週間近く経っている気がする。決めきれないというより、決める体力が今はない、というほうが近い。
そういえば母は、9月に入るとすぐに衣替えを済ませる人だった。まだ暑いのに、と子どもの頃の私はいつも文句を言っていた。今にして思えば、あれは季節を先取りしていたのではなく、季節に追いつかれる前に整えておく、という母なりのやり方だったのかもしれない。私はそれができない。できないというより、しない、を選んでいる。
デパートのエスカレーターを上がると、婦人服売り場のフロア全体がもう秋色だった。からし色、深緑、テラコッタ。夏物のワゴンはフロアの隅に追いやられて、割引の札だけが元気だった。半袖のシャツが40%オフになっていて、これから半袖を着る季節はほとんど残っていないのに、と思いながらも、私はそのワゴンの前で一枚手に取ってしまった。買わなかったけれど、手に取ってしまった時点で何かに負けている気もする。
自分の生活のペースと、街のディスプレイのペースが、こんなに合わないものかと驚く。仕事も似たようなところがある。上司の頭の中ではもう来月の数字の話が進んでいて、私はまだ今月の資料を直している。誰も悪くないのに、いつも半歩遅れているような感覚だけが残る。ここまで書いて気づいたけれど、私が焦っていたのは季節そのものより、この「置いていかれている感じ」のほうだったのかもしれない。
わかっている。マネキンに罪はない。ディスプレイの担当者は、ただ仕事として来月の売り場を作っているだけで、私に何かを急かしているわけじゃない。わかっているのに、ガラスの前で数分も立ち止まって、少し落ち込んでしまう自分がいる。この矛盾を、うまく片づける気にはなれない。片づかないまま、それでも家には帰らないといけないので、私は歩き出した。
帰り道、コンビニの前を通ったら、レジ横のホットスナックのケースがもう動いていた。まだ半袖の人が肉まんを買っている姿を見て、少し笑ってしまった。この人も私と同じで、季節に急かされているのか、それとも単に肉まんが食べたかっただけなのか。たぶん後者だ。人はそんなに季節論を背負って肉まんを買わない。
あなたも今日、暑いなか、よく最後まで働いた。汗をかいたシャツのまま電車に乗って、涼しい顔のマネキンにちょっと嫉妬したりして、それでもちゃんと家に向かって歩いている。それだけで十分だと思う。
家に着いて、クローゼットを開けた。相変わらず手前半分だけ長袖で、奥はまだ夏物のままだった。今日はやめておこう、と思って扉を閉めた。理由はない。ただ、今日はそういう気分じゃなかった、それだけだった。
マネキンはきっと明日も同じ顔で、同じカーディガンを着ている。私は明日もまだ半袖かもしれないし、思いきって薄い羽織りを一枚出すかもしれない。そのどちらでもいい気がしてきた。季節に合わせることと、自分の体感に合わせることは、いつも少しだけずれていて、そのずれを無理に埋めなくてもいいんじゃないか。
今夜はもう遅いから、衣替えのことは考えないことにする。窓を少し開けたら、夏よりわずかに涼しい風が入ってきた。長袖のマネキンより、この風のほうが、今の季節をよほど正直に教えてくれている気がした。
置いていかれたわけじゃない。ただ、少しだけ歩くペースが違うだけだ。マネキンには私の汗も、今日の一日も、わからない。わからなくていい。私は私のタイミングで、そのうち長袖を出す。今日じゃなくても、たぶん困らない。
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