9月の朝、7時40分。ベランダに出て洗濯物を干しながら、あれ、と思った。タオルを持つ手に、いつもの重さがない。生地に水が含まれている感触が、なんというか、まだ余っている。8月なら干した瞬間から乾きはじめる音が聞こえるような気さえしたのに、今日はただ濡れたタオルが風に揺れているだけだった。
風はある。弱くはあるけれど、確かに吹いている。なのに乾く気配がしない。空を見上げると雲は薄く、日差しもそれなりに強い。条件はそろっているはずなのに、なぜか去年の8月とは何かが違う。湿度計を見ると68パーセント。数字だけ見れば真夏とそう変わらないのに、体感はもっとねっとりしている気がした。
仕事に出かける前、もう一度触ってみる。まだ湿っている。仕方なく、そのまま出かけた。19時に帰ってきて取り込むと、案の定というか、Tシャツの脇の部分にうっすら生乾きの匂いが残っていた。あの、雑巾を煮たような、なんとも言えないにおい。鼻を近づけて、うわ、と声が出た。誰もいない部屋で一人でうわ、と言っている自分がすでに少しおかしい。
結局その日は3枚だけ洗い直した。洗濯機をもう一度回すという、朝から数えると二度目の労働。柔軟剤を多めに入れて、脱水を長めにして、それでもどこか自信がない。乾燥機付きの洗濯機を買えばいいのに、と何度も思いながら、結局買わずに9月を何回も繰り返している。買わない理由を聞かれたら、置き場所がないとか値段がとか、それらしいことをいくつも並べられるけれど、本当のところはただ、今のままでもなんとかなっている、というだけの話な気がする。
夏の間、洗濯物はある意味で気楽だった。干せば乾く。それだけの単純な取引だった。考える必要がなかった。だからこそ、乾かないという当たり前のことに、こんなにも戸惑っているのかもしれない。乾くのが当然だと思っていたものが、当然ではなくなる瞬間。季節の変わり目というのは、そういう小さな前提の崩れの積み重ねなのだろうか。いや、崩れというと大げさすぎる気もする。ただ、少し、時間がかかるようになっただけだ。
柔軟剤のCMでは、いつも干したての洗濯物にふわっと風が通って、女優さんが幸せそうに顔をうずめている。あれを見るたびに、うちの洗濯物はそんな爽やかな匂いにはならないな、と思う。うちのタオルは大体、洗剤と生乾きのあいだのどこかの匂いで、幸せそうに顔をうずめるには少し勇気がいる仕上がりだ。それでも毎回同じ柔軟剤を買ってしまうのは、たぶん惰性であって希望ではない。
干し方にもクセがある。パーカーは裏返して、フードの中に手を入れて空気を含ませるように干す。これは母がやっていたやり方をそのまま真似ているだけで、意味があるのかどうか、正直よくわからない。効果があるのかと聞かれたら、たぶんある、と答えるけれど、比較実験をしたことは一度もない。ただそうするものだと思って、10年以上そうしている。人の習慣というのは案外、根拠より先に体が覚えてしまうものらしい。
そういえば、と、ここまで書いて気づいた。生乾きの匂いに気づくようになったのは、いつからだろう。子どもの頃はきっと気にしていなかった。母がすべて調整してくれていたからかもしれないし、単に鼻が鈍かっただけかもしれない。今は自分でやっている分、失敗もそのまま自分に返ってくる。誰のせいにもできない小さな不便さが、9月の湿度と一緒に部屋にたまっていく。
窓の外では、蝉の声がもうほとんど聞こえない。かわりに、どこかで虫の音が鳴っている。夏がゆっくり後ろに下がっていくのを、洗濯物の乾き具合で知るというのも、なんだか妙な話だ。天気予報でもニュースでもなく、タオルの湿り気で季節を測っている。誰に自慢できるものでもないけれど、それはそれで悪くない気もする。
乾きが遅くなったぶん、干す時間も少し早くした。今は6時50分に起きて、まず洗濯機を回す。以前より15分早い。たった15分だけれど、その15分のために目覚ましを変えるのは、正直ちょっと面倒くさい。面倒くさいと思いながらも、結局続けている。人間、面倒だと思うことと続けられないことは、必ずしもイコールではないらしい。
乾かないなら乾かないなりに、部屋干し用の洗剤に変えてみようか、扇風機を洗濯物に向けてみようか、と考える。考えるだけでまだ実行はしていない。わかっているのに、なかなか動かない。それでも、まあ、そのうちやるだろうと思っている自分もいる。この「そのうち」がいつまで続くのか、去年の自分に聞いてみたい気もするけれど、たぶん去年の自分も同じことを言っていた。
洗濯物が乾かない朝に苛立つこともある。時間がないときに限って生乾きだったりすると、正直、舌打ちのひとつもしたくなる。それでも、この中途半端な湿り気は、季節がまだ完全に秋になりきっていない証拠でもある。夏でも秋でもない、どっちつかずの時間。洗濯物と同じで、自分の気持ちもどこかそのくらいの湿度で、乾ききらないまま日々を過ごしているのかもしれない。
結局、今日も洗濯物は完全には乾かなかった。取り込んでハンガーから外すとき、袖のあたりがまだひんやりしていた。その冷たさが、思ったより不快じゃなかった。むしろ、真夏の乾ききったパリッとした感触より、少し優しい気がした。乾いていないことを、悪いことだと決めつけなくてもいいのかもしれない。
今日もよく一日を過ごした。洗濯物が乾かなくても、生乾きの匂いに顔をしかめても、それでも朝はちゃんと家を出て、夜はちゃんと帰ってきた。それだけで、もう十分な気がする。
明日もたぶん、洗濯物は完全には乾かない。それでも干す。乾かないことに慣れるのか、慣れないまま9月を越すのか、まだわからないけれど、どちらでもいい。ただ、今夜のタオルの湿り気くらいは、そっと許してやろうと思う。
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