朝7時、ゴミ袋を持って外に出て、3歩で後悔した。クソ暑い。あまり品のない言葉は使いたくないのだが、この暑さは「とても暑い」では追いつかない。クソ暑い。それ以外の日本語が、見つからない。朝7時の時点で、今日はもうだめだと思った。
ゴミ捨て場では、近所のおじさんと目が合った。お互い、何も言わずに、ちょっとだけ顔をしかめて会釈した。あれはたぶん「暑いですね」の省略形だ。この季節の日本人は、会釈ひとつで暑さを伝え合える。しかめ具合で湿度まで伝わる。便利な国だと思う。
アスファルトは、朝7時ですでに熱を持っていた。セミは元気だった。あの体力はどこから来るのだろう。地上に出てから一週間しか生きられないと聞いたことがあるが、それであの声量なら、悔いはないのかもしれない。うらやましいような、そうでもないような。ゴミ捨て場までの往復80メートルで、私はもう汗をかいていた。
そういえば子どもの頃、祖母が朝によく打ち水をしていた。玄関の前に柄杓で水をまくと、土の匂いがふっと立って、ほんの少しだけ涼しくなった。効果は、たぶん数分だった。その数分のために、祖母は毎朝まいていた。あの数分の涼しさを、私はいまだに、どのエアコンでも再現できていない。
部屋に戻って天気予報のアプリを開くと、「危険な暑さ」と書いてあった。危険、とまで言われても、私たちは今日も仕事に行く。危険なのに行く。よく考えるとおかしな話だが、考えないことにして、日焼け止めを塗った。
ちなみにこの日、私は麦茶入りの水筒を玄関に忘れて出た。昨夜わざわざ麦茶を仕込んで、冷やして、朝、水筒に詰めてまで、忘れた。会社の給湯室でそれを思い出したときの、あの気の抜け方。誰のせいにもできないのが、いちばんこたえる。
通勤の電車は冷房が効きすぎていて、駅までの道でかいた汗が、急速に冷えていく。降りたらまた汗をかく。冷やされて、あたためられて、また冷やされて。人間というより、結露しかけの窓ガラスになった気分だった。
オフィスでは、冷房の設定温度をめぐる静かな攻防が続いている。寒がりの誰かが1度上げ、暑がりの誰かが、いつの間にか1度下げる。誰も、何も言わない。リモコンだけが静かに行ったり来たりしている。今日は26.5度で停戦していた。小数点は、たぶん妥協の跡だ。
会社では、誰もが「暑いですね」と言った。私も言った。数えていたわけではないが、今日たぶん「暑いですね」を14回くらい言っている。おはようございますより多い。この季節、日本の挨拶はぜんぶ「暑いですね」に置き換わる。語彙が、暑さで溶けている。
昼休みは、外に出るかどうかで毎回少し悩む。コンビニまで歩いて5分。その5分のために、また汗をかくのか。結局出た。買ったアイスコーヒーの氷は、席に戻る頃にはもう半分になっていた。夏のアイスコーヒーは、飲み物というより時間制限のあるゲームだと思う。
駅のホームでは、みんなが小さな扇風機を顔に当てて立っていた。ハンディファンというやつだ。数年前まで存在しなかった光景なのに、いまや誰も不思議に思っていない。全員が無言で自分に風を送っている夕方のホームは、少し未来の映画みたいで、私はちょっと好きだ。
帰り道、コンビニに避難した。買うものは特になかった。アイスの棚の前で3分くらい迷って、結局ガリガリ君のソーダにした。迷った意味は、なかった。最初からそれにすると決まっていた気もする。でもあの3分の冷気が、今日いちばんの贅沢だった。
ガリガリ君は、当たりが出なかった。当たったら何かいいことが起きる気がして、毎回ちゃんと棒の先を確認する。何年もやっているが、当たった記憶が、ほとんどない。それでも毎回見る。夏の、いちばん小さい宝くじだと思っている。
そういえば夕方、天気予報には夕立のマークが出ていた。降らなかった。それでも、雲が少し厚くなっただけで、街全体がちょっと期待した気配があった。結局降らないまま夜になったけれど、あの「降るかもしれない」の30分は、なんとなく涼しかった。気のせいの涼しさも、涼しさのうちだ。
夜、風呂上がりに窓を開けたら、一瞬だけ風が入ってきた。ぬるい風だったけれど、悪くなかった。どこかの家の風鈴が鳴っていた。風鈴は自分では買わないのに、よその風鈴の音はありがたく受け取っている。ずるいなと思う。毎年思っている。そして毎年、買わない。
夜のアスファルトは、昼の熱をまだ手放していなかった。ふくらはぎのあたりに、もわっと熱が残っている。自動販売機の明かりのまわりだけ空気が明るくて、虫が数匹まわっていた。買う予定はなかったのに、気づいたら小銭を入れていた。夏の夜の自販機には、そういう引力がある。
家に帰ってドアを開けると、部屋の熱気がもわっと出迎えてくる。留守のあいだ、部屋は律儀に熱をため込んでいたらしい。かばんも下ろさず、まずエアコンの電源を入れて、効きはじめるまでの数分を玄関でしのぐ。この「玄関で待つ数分」まで含めて、たぶん夏の儀式なのだと思う。誰に教わったわけでもないのに、みんなやっている気がする。
シャワーは、水だけで浴びた。というより、蛇口を「水」に振り切っても、出てくるのがすでにぬるい。水道管ごと夏になっている。ちょうどいいと言えばちょうどいいのだが、キンと冷たい水が恋しくもある。ないものねだりを、体が勝手にやっている。
寝る前には、エアコンのタイマーを何時間にするかで、また少し悩む。3時間にすれば切れた瞬間の暑さで目が覚めるし、朝までにすれば体が冷える。今夜は4時間にした。根拠はない。昨日は3時間で、目が覚めたからだ。こうして人は、毎晩1時間ずつ学んでいく。学んだ先に正解があるのかは、わからない。
…と、ここまで書いて気づいたのだが、私は今日、暑さの文句しか言っていない。解決策も、前向きな学びも、何もない。でも、それでいい気もしている。「暑いですね」「ほんとですね」と言い合うだけの会話が、この季節の人間を、かろうじてつないでいる。文句は、夏のコミュニケーションだ。
もしあなたも今日、この暑さの中を駅まで歩いたり、ゴミを出したり、誰かに「暑いですね」と言ったりしたのなら、それだけでもう、今日ぶんの立派な仕事だと思う。この気温の下では、外に出て帰ってくるだけで、ひとつの達成だ。冷たいシャワーと麦茶くらいの報酬は、堂々と受け取っていい。
この暑さも、お盆を過ぎればふっとゆるむことを、一応知っている。そして10月になった頃、あれほど憎かった夏を、ちょっとだけ恋しく思い出すことも。毎年そうだった。学ばないのではなく、たぶん、そういうふうにできている。過ぎてしまえば暑さの記憶だけが薄れて、ガリガリ君と、よその風鈴と、降らなかった夕立だけが残る。
だから今日のところは、争わないことにする。クソ暑い、と口に出して、麦茶を飲んで、寝る。明日も暑い。それはもう決まっている。決まっていることと戦っても仕方がないので、せめてアイスの在庫だけ確認して、今日を閉じる。冷凍庫に、ガリガリ君があと2本。それだけで、明日はたぶん、なんとかなる。
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