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今年最後の蚊、たぶん見逃した

9月14日、23時2分。電気を消したあとの部屋で、耳のすぐそばを何かが通った。あの音だ。プーン、というには軽すぎる、キーンに近い高い羽音。反射的に手を振ったら、空振りした風だけが頬に当たった。

起き上がって明かりをつける。壁を見る。天井を見る。カーテンの裾のあたりに、黒い点のようなものがとまっている気がしたけれど、近づいたら見間違いだった。しばらく立ったまま、蚊が飛んでいるはずの空間をにらんでいた自分が、わりとバカみたいだった。

結局、見つからなかった。あきらめて布団に戻り、また電気を消したら、5分後にまた耳元で鳴いた。今度は思いきり両手で自分の顔を叩いてしまい、頬だけが痛くて蚊は無傷だった。こういうとき、蚊よりも自分の反射神経のほうを疑いたくなる。

9月も半ばを過ぎると、蚊は数が減ってくる。真夏の、朝の玄関を開けた瞬間に3匹くらいまとわりついてくるあの猛烈さは、もうない。だからその夜の一匹は、なんとなく最後の一匹っぽい気配があった。動きが鈍い。羽音に、夏の勢いがない気がした。

気のせいかもしれない。蚊に「今年最後感」なんてものが漂うわけがないのだけど、それでも私は布団の中で、あれがもしかして今シーズン最後に自分を狙った蚊だったのではないか、と考えていた。考えても仕方のないことを、23時過ぎに考えるのは得意なほうだ。

去年の夏、8月の終わりに足首を4か所も刺されて、眠れないほど痒くて、明け方まで保冷剤を当てていた夜があった。あのときは「もう蚊なんていなくなればいいのに」と本気で思っていたのに、いなくなる瞬間には、誰も気づかせてくれない。

蚊取り線香は、いつも最後まで燃やしきったことがない。緑の渦巻きの、いちばん外側から火をつけて、真ん中の少し手前あたりで寝落ちしてしまう。朝起きると灰の輪が途中で切れていて、あの「あとちょっと」で終わった形が、なんとなく今年の夏そのものに見えてくる。

考えてみれば、夏が終わるときっていつも、こういう終わり方をする。花火大会の最後の一発を、片付けを始めて見逃す。プールの最終日を、なんとなく行かずに過ごす。セミの声がいつ止んだのか、正確に覚えている人はあまりいない。

……と、ここまで書いて気づいたけれど、私はたぶん「終わり」というものをちゃんと見送りたいのに、いつも見送れていない。見送りたい気持ちと、見送れない現実が、毎年同じ角度でぶつかって、そのまま次の季節に押し流されていく。

だから今年の蚊も、あれが最後だったのかどうか、本当のところはわからない。もしかしたらまだ1匹くらい、網戸の隙間からこっそり入ってきて、私の血を吸って満足げに飛び去っているかもしれない。それならそれで、まあいいかとも思う。

9月の夜風は、8月のそれよりわずかに涼しい。窓を少しだけ開けて寝ると、虫の声のほうが蚊の羽音より大きくなってきた。コオロギなのか鈴虫なのか、正直あまり区別がついていない。区別がつかないまま、毎年ちゃんと秋は来る。

叩き損ねた蚊のことを、次の日にはもう忘れていた。忘れていたことに気づいたのは、また別の夜に、ふと「そういえばあの蚊、最後まで見なかったな」と思い出したときだった。忘れることと、気づかないまま過ぎることは、たぶん似ているようで少し違う。

見送れなかった夏も、叩き損ねた蚊も、たぶんこの先ずっと正体不明のままだ。それでいい、と言い切れるほど達観してはいないけれど、正体不明のまま棚に置いておくくらいの余白は、自分に許してもいい気がしている。

あなたの部屋にも、まだ一匹くらい飛んでいるかもしれない。だとしても、無理に追いかけて叩く必要はない。今年最後かどうかもわからない蚊に、そこまで律儀に向き合わなくていい。

電気を消して、また耳元で高い音が鳴ったら、今度は静かに「またか」と笑ってしまえたらいい。叩けなくても、逃げられても、それでちゃんと夏は終わっていくし、あなたもちゃんと、今日という一日をここまで運んできた。それだけで、じゅうぶんだと思う。

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