23時46分、居間のテレビだけが青白く光っていた。音は消してある。甲子園の録画を、その日のうちに追いつくつもりで再生していたら、気づけば隣の部屋で母が寝ていて、リモコンの音量ボタンを下げるしかなかった。ミュートにしたまま、それでも消す気にはなれなくて、そのまま見続けた。
画面の中では、白いユニフォームの背中がいくつも並び、土煙が舞い、スタンドの応援団が腕を振り上げている。声援があるはずの場所に、扇風機の首振る音だけが重なる。カラカラ、カラカラと、羽根が空気を切る音。麦茶の入ったグラスの表面に水滴がたまって、テーブルにうっすら丸い跡を作っていた。
音がないと、意外と伝わってしまうものがあるらしい。監督が両手を広げて何か叫んでいる。ベンチの選手が帽子を投げる。誰かが泣いている。理由はわからないのに、悔しいのか嬉しいのか、画面越しでもなんとなく察してしまう。声を聞かなくても、体の動き方だけで、そこにどれだけの気持ちが乗っているかがわかってしまう。それが少し、こわいような気もした。
自分は野球部でもなんでもなかった。中学の体育でソフトボールを二回やっただけで、ボールが怖くて後ろに下がっていたタイプだ。だから彼らの必死さに、経験として重なる部分はほとんどない。それなのに、なぜかこの時間だけは正座に近い姿勢でテレビを見てしまう。麦茶を飲むタイミングすら、なんとなく計っている自分がいた。
画面の中の高校生たちは、汗だくで、砂まみれで、それでも次の一球に向かって走っている。こちらはソファに沈み込んで、扇風機の風を独り占めしながら見ているだけだ。同じ8月の同じ夜なのに、流している汗の量が違いすぎる。比べる必要なんてないのに、比べてしまう。今日の自分は何を全力でやっただろうか、と考えはじめて、思いつかなくて、麦茶をもう一口飲んだ。
…と、ここまで書いて気づいた。比べているのは、彼らの必死さと自分の必死さじゃなくて、たぶん「見えているもの」と「見えていないもの」なんだろう。彼らの努力は画面の向こうでちゃんと形になって映っている。自分の一日の努力は、誰にも撮られていないし、ハイライトにもならない。ただ会議に出て、メールを返して、定時で帰って、麦茶を飲んで終わっただけだ。それだけなのに、なぜか物足りない気がしてしまう。
甲子園の土は黒土と白砂を混ぜて作ってあると、昔何かで見た記憶がある。黒土だけだと重すぎて足を取られ、白砂だけだと軽すぎて滑る。ちょうどいい配分は毎年球場ごとに調整されているらしい。そんな細かい配合まで整えられた場所で戦っている彼らと、自分の職場の、誰も配合なんて気にしていないビニール床とを比べるのは、そもそも土俵が違う気がしてきた。違うというか、比べる意味がそもそもないのかもしれない。
延長は10回までタイブレークだったか、確かそのくらいだったはずだ。うろ覚えのまま見ていると、9回裏、逆転のランナーが返ってきて、ベンチが総立ちになった。声は聞こえないのに、口の形だけで「うおおお」と言っているのがわかる。こちらは無音のまま、少しだけ拍手のような形に手を動かしてしまい、すぐに恥ずかしくなってやめた。誰も見ていないのに。
画面が切り替わって、負けたほうのチームの三年生が泣きながら土をかき集めている場面になった。ここでようやく音量を少し上げようかと迷ったけれど、結局上げなかった。彼らの本気の涙に、こちらの本気度が追いつく気がしなかったからだ。届かなくていい涙もある、と思うことにした。全部に共感しようとしなくていい、というのは、たぶん最近覚えた数少ない諦め方のひとつだ。
そういえば録画予約を忘れていて、結局この試合はリアルタイムで最初から最後まで見てしまった。翌朝は6時起きの予定だったのに、気づけば日付が変わっていた。仕事のための夜更かしなら少しは誇れるのに、これはただの甲子園ロスの前借りのようなもので、我ながらしょうもない。しょうもないけれど、悪くはない夜だった。
がんばっている誰かを見ると、自分もがんばらなきゃという気持ちと、もうがんばれないという気持ちが同時に湧いてくる。その両方を持ったまま画面を消音のまま見続けるくらいが、今の自分にはちょうどいいのかもしれない。全部に音量を合わせなくていい。届く音量だけ、届く分だけ受け取ればいい。
扇風機は首を振り続けていて、麦茶のグラスはもう空だった。氷はとっくに溶けて、薄い麦茶の色をした水だけが底に残っている。それを飲み干して、テレビを消した。真っ暗になった画面に、部屋の照明と自分の輪郭がぼんやり映り込んで、それだけで今日はもう十分見た気がした。
あなたも今日、誰かの必死さを画面越しに眺めながら、自分の一日を静かに終えたのかもしれない。それでいい。声を出さなくても、拍手をしなくても、比べなくても、見ていたというだけで、たぶん十分に付き合ったことになる。
来年もきっと、誰かがまた無音のまま甲子園を見ているだろう。同じ夏はもう来ないのに、同じような夜だけが繰り返されるのは、なんだか変な安心感がある。今夜のこの試合の結末を、来年の自分はもう覚えていないかもしれない。それでも、この麦茶の薄さと扇風機の音だけは、なぜかしばらく覚えていそうな気がしている。
← 記事一覧にもどる