9月14日、日曜日の午後3時。クローゼットの前に段ボールを一箱置いて、衣替えをはじめた。今年の夏は長かったから、まだ半袖でいい日も多い気がしていたけれど、カレンダーが9月と言い張るので、そろそろ観念することにした。
段ボールを開けると、去年の防虫剤の匂いがふわっと立ちのぼる。ナフタリンなのか何なのか成分はよく知らないけれど、あの匂いを嗅ぐと体が勝手に「季節が変わる合図だ」と受け取るようになっている。犬が鈴の音でよだれを垂らすやつと似ている気がするけれど、私の場合はよだれの代わりに、なんとなくため息が出る。
半袖のTシャツを畳んでいく。7枚あるうちの3枚は、今年になってから一度も着ていないことに気づいた。買ったときは「これは着回せる」と思っていたのに、結局いつも同じ2枚をローテーションしていた。クローゼットというのは、着ない服の墓場みたいな場所だなと、毎年思っている気がする。今年もまた思った。
長袖のシャツを引っぱり出す途中で、去年の自分がどんな気持ちでこれを買ったのかまったく思い出せない服が出てきた。グレーの、襟の形が微妙に凝っているシャツ。試着室で「悪くない」と思ったはずなのに、今見ると自信がない。服にも賞味期限みたいなものがあるんだろうか。いや、賞味期限というより、あのときの自分にしか似合わなかった、というほうが近いかもしれない。
作業を始めて40分くらい経ったところで、ハンガーにかけた半袖と長袖が交互に並んでいるのが目に入った。夏の服と秋の服が、握手もせずにただすれ違っている。そんな光景だった。切り替わるというより、まだお互いの気配を確かめ合っているような、どっちつかずの並びだった。
そこで急に手が止まった。理由は特にない。ただ、段ボールに詰めた夏物の半分くらいのところで、なんとなく続きをやる気が失せてしまった。窓の外では、まだ蝉が鳴いている。ただし8月のときのような全力の合唱ではなく、数がだいぶ減った、まばらな鳴き方だった。あの鳴き方を聞くと、夏がもう店じまいの支度をしているのがわかる。
結局、段ボールに半分だけ夏服を詰めて、残りの半分はクローゼットに吊るしたまま、床に座り込んでしまった。畳みかけのTシャツが1枚、膝の上に乗っている。冷たい麦茶を一口飲んで、これで今日はもういいかと思った。衣替えは半分で力尽きた。
…と、ここまで書いていて気づいたのだけれど、私はどうも「衣替え」という行為に、必要以上の意味を背負わせていたのかもしれない。夏を終わらせて、秋を迎え入れる儀式のようなものだと、勝手に思い込んでいた。でも実際にやっているのは、ただ服を移動させているだけの、地味な労働でしかない。
窓を少し開けると、風がすっと入ってきた。8月の風とは明らかに違う。湿っていないし、肌に張り付かない。9月の風には、どこかよそよそしいところがある。夏のあいだ散々世話になったくせに、急に他人行儀になった友人みたいだ。もう少し優しくしてくれてもいいのに、とちょっと思う。
半分だけ片付いたクローゼットを眺めながら、これでいいんじゃないかという気持ちになってきた。夏物と秋物がきれいに分かれていなくても、別に誰にも迷惑はかからない。むしろ、9月というのはそもそもそういう月なのだと思う。半袖の日もあれば、羽織るものが欲しい夜もある。季節そのものが、まだ衣替えを終えていない。
去年のこの時期、私は9月の頭で完璧に衣替えを終わらせていた。段ボールをきっちり閉じて、ガムテープまで貼って、達成感に浸っていた記憶がある。でも今年は、途中で座り込んで麦茶を飲んでいる。どちらの自分がよかったということもなくて、ただ今年はこうだった、というだけの話だ。
畳みかけのTシャツを、結局そのまま椅子の背もたれにかけて、続きは来週にすることにした。来週になっても、たぶん同じところで力尽きる予感がある。それでも構わないと、いまは思える。完璧に切り替わらなくても、季節はちゃんと動いていく。私が段ボールを閉じようが閉じまいが、蝉の鳴き声は日ごとに減っていくし、風はどんどんよそよそしくなっていく。
あなたも今日、暑いのか涼しいのかよくわからない服装で、一日をなんとかやり過ごしたんじゃないだろうか。それでいいんだと思う。半袖と長袖が同じハンガーに並んでいるくらいの中途半端さで、ちょうどいい。
夜、風呂上がりに何を着ようか少し迷って、結局去年から着ている薄手のパーカーを選んだ。袖を通すと、少しだけ懐かしい匂いがした。防虫剤の匂いか、それとも去年の自分の匂いか、よくわからない。わからないままでいいかと思って、電気を消した。
← 記事一覧にもどる