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金木犀の匂いに、まだ気づいていない

9月14日、17時38分。駅から家までの道を歩いていて、まだ半袖のシャツが背中に張りついた。汗をかくには十分な暑さで、コンビニの前を通ったら自動ドアが開く前から冷気が漏れてきているのがわかった。ああ、まだ夏だ、と思う。でも足を止めて、なんとなく空を見上げたら、雲の形が先週とは違う気がした。違う、と言い切るほどの根拠はない。ただ、なんとなく。

夕方の風というのは不思議なもので、気温計の数字が同じでも、肌に当たる感触だけが少しずつ変わっていく。今日の風は、少しだけ湿度が引いていた気がした。汗ばんだ首筋にあたる風が、いつもより一瞬だけ涼しく感じられた。それだけのことなのに、季節が動いた、と大げさに思ってしまう自分がいる。

駅前のスーパーの入り口には、もう「秋の味覚フェア」という張り紙が貼られていた。中に入ると、棚に並んでいるのは相変わらず麦茶とそうめんと保冷剤で、秋らしいものといえば栗の甘露煮が隅に少し追加されているくらいだった。フェアという言葉だけが先走っていて、店の中身はまだ夏のままだった。わたしの中もきっとそうなんだろうと思う。

去年の今ごろの写真をスマホで見返してみたら、金木犀の花のアップが一枚出てきた。日付は9月28日。まだ二週間も先の話だ。去年のわたしはこの時期にもう匂いに気づいていたのか、それとも写真を撮った日にたまたま強く匂っただけなのか、正直よく覚えていない。記憶というのは都合よく編集されていて、覚えていることと覚えていたいことの区別がだんだんつかなくなる。

今年もそろそろ匂うはずだ、と思いながら、ここ数日、道を歩くたびに鼻をひくつかせている自分に気づく。何かを待っているときの人間は、少し滑稽な形をしている。ポストの前で郵便配達のバイクの音に反応してしまうときの動きに似ている。何も来ていないのに、来た気がして振り向いてしまう、あの動き。

待つことについて、去年もこんなふうに焦っていただろうか。いや、違うかもしれない。去年は匂いに気づく前に、もっと別のことで頭がいっぱいだった気もする。仕事の締め切りだったか、誰かとの約束だったか。季節の変わり目を、その年ごとにちゃんと感じ取れていたことなんて、実はほとんどなかったのかもしれない。

実家の庭に金木犀の木があったことを、ふと思い出した。母がその木の下でよく洗濯物を取り込みながら、「今年はもう匂ってきたね」と言っていた。子どもだったわたしは、正直そこまで匂いに興味がなくて、母がなぜそんなに嬉しそうにその報告をしてくるのか、あまりよくわかっていなかった。今になって、あの匂いの記憶だけがやけに鮮明に残っている。人はいなくなったものの匂いだけ、妙にはっきり覚えていられるらしい。

今のわたしのベランダには、植木鉢が一つあるだけだ。去年の春に買った小さな金木犀の苗木で、正直まだ花をつけたことがない。水やりも週に一度どころか、思い出したときにしかやっていない。それでも枯れずに緑の葉を茂らせているのだから、植物というのはこちらの怠慢を見越して生きているのかもしれない。ちょっと申し訳ない気持ちになる。

先週、ドラッグストアで金木犀の香りのルームフレグランスを買った。本物が匂う前に、部屋の中だけ先に秋にしてしまおうという魂胆だった。ところが箱を開けて置いた瞬間、匂いが強すぎて、玄関を開けるたびにむせそうになる。本物の金木犀はもっと控えめに、風に乗ってふわっと香るものなのに、瓶詰めにされた香りはやけに主張が激しい。季節を先取りしようとした結果、ただの香害になってしまった自分にちょっと笑ってしまった。

季節の変わり目には、はっきりした境界線がない。夏から秋になる瞬間を指差して「ここです」と言える人は、たぶんいない。ある日ふと気づいたら空気が変わっていて、でもその「ある日」がいつだったかは、後になってもよくわからない。今日という日が、実はその境目のど真ん中かもしれないのに、それすら気づかずに過ごしている。

そういえば、蝉の声をもう何日聞いていないだろう。うるさいと思っていたはずのあの声が、いなくなった途端にただの静けさになって耳に残る。代わりに何か特別な音が聞こえてくるわけでもなく、ただ換気扇の音とか、遠くの工事の音とか、生活音だけが残る。にぎやかだったものが去っていくときは、たいてい何かに置き換わるのではなく、ただ静かになるだけらしい。

換気扇を止めて、少しだけ耳を澄ませてみる。何も聞こえない。というより、いつも聞こえているはずの生活音の隙間に、いつもは気づかない小さな音がいくつか混じっているのに気づく。冷蔵庫の低いうなり、隣の部屋のテレビの音の切れ端。季節が動くときというのは、大きな音がするわけではなくて、こういう小さな隙間から静かに忍び込んでくるものなのかもしれない。

ここまで書いていて気づいたのだけれど、わたしは金木犀が匂うのを待っているようでいて、本当は季節が変わることそのものを、ちゃんと確認したがっているだけなのかもしれない。匂いというわかりやすい合図がないと、時間が過ぎていくことをうまく受け止められない。合図がなくても、ちゃんと季節は進んでいるのに。

たぶん、金木犀はいつか勝手に匂いだす。わたしが気づいていようがいまいが、木のほうは律儀に、決まった時期に花を咲かせる。こちらの都合や焦りとは関係なく、向こうのペースで進んでいく。それに気づけるかどうかは、こちらの鼻の調子と、その日たまたま外を歩いていたかどうかにかかっている。案外いいかげんなものだ。

今日はまだ匂わなかった。それでいい、と思う。匂いに気づく日はきっとそのうち来る。来なかったら来なかったで、今年はうっかり見逃した年、ということにして、来年また鼻をひくつかせて歩けばいい。あなたも今日、暑い中をよく歩いた。季節の変わり目に気づけなくても、ちゃんと今日という日を過ごしただけで、十分だと思う。

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