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蚊取り線香を、最後まで燃やしきったことがない

30巻入りの缶を6月に買って、7月の終わりにまだ22巻残っている。単純に引き算すると、この一か月半で8巻しか使っていない。ただ、その8巻もほとんど最後まで燃えていない。わたしは蚊取り線香を、たぶん人生で一度も、最後の一周まで燃やしきったことがない。

理由ははっきりしている。寝る前に消してしまうからだ。火をつけたまま眠るのがどうしても怖い。何度も「大丈夫、下は陶器の皿だし」と自分に言い聞かせるのだけれど、布団に入って3分くらいすると、やっぱり起き上がって、渦の先端を皿の縁に押しつけて消す。ジュッともいわない。ただ、細い煙が急に途切れる。押しつけた先端が黒くつぶれて、そこだけ渦の太さが変わる。翌朝それを見ると、昨夜の自分がどのへんで怖くなったのかが一目で分かる。7センチのところで怖くなった夜、3センチしかもたなかった夜。灰皿の上に、その日の心の弱さが長さで記録されている。

そもそも缶の蓋が固い。毎年、最初の一回だけは10円玉を隙間に差し込んでこじ開けている。爪でやろうとして失敗したことが何度もあって、ある年から10円玉と決めた。台所の引き出しの手前に、そのためだけの10円玉が一枚入っている。夏が終わると財布に戻すのを忘れて、翌年また同じ場所で見つける。

あの渦の形を最初に考えた人は、すごいと思う。まっすぐの棒だと長さが稼げないから、二重の渦にして限られた面積に7時間分を詰め込んだらしい。効率の話だ。でも効率のために生まれた形が、結果としてこんなに見て気持ちのいい形になっているのが、なんだかうまくいきすぎている気がする。

火をつける手順が、少し儀式めいている。缶の蓋を開けて、二枚重ねの渦を割って一枚にする。ここでたまに折る。折るとその年の運が少し悪い気がする。チャッカマンで先端をあぶって、オレンジ色の点が生まれるのを確認してから、細い煙が一本まっすぐ上がって、20センチくらいのところでふっと横に曲がるのを見届ける。ここまでが一連の流れで、ここまでやらないと夏が始まった感じがしない。

うちにあるのは、百円ショップで買った平たい金属の皿だ。豚の形をした蚊遣り器を毎年ホームセンターで見かけて、いいなと思って、毎年買わない。値段は1200円くらいだったと思う。買わない理由はとくにない。ただ、あれを買うと「ちゃんと夏を過ごしている人」になってしまう気がして、その資格がまだない、という謎の遠慮がある。豚に審査されているわけでもないのに。

匂いは、除虫菊の匂いなのだと大人になってから知った。わたしにとっては祖母の家の匂いでもある。縁側と、蚊帳と、首を振る扇風機。ただ実際には、祖母の家に縁側はなかった。普通のアパートの二階だった。記憶というのは勝手に増築する。ないはずの縁側を、毎年この匂いのたびに建て直している。祖母の家で本当にあったのは、ベランダに出しっぱなしのサンダルと、いつも半分だけ開いていた窓と、テレビの上に置かれた小さい招き猫くらいだ。それだけの材料から、なぜか毎年ちゃんと縁側が生えてくる。人の記憶は、たぶん正確さよりも居心地のよさを優先して作られている。

先週、腕と足を数えたら、蚊に刺された跡が4箇所あった。蚊取り線香を焚いた夜にも刺されている。効いているのか効いていないのか、正直よく分からない。分からないまま、毎年当たり前の顔で火をつけている。もはや害虫対策というより信仰に近い。効果を検証したことがないという一点において、わたしと蚊取り線香の関係はかなり宗教的だ。

蚊の羽音は、なぜか耳のそばに来たときだけ聞こえる。部屋のどこかを飛んでいるあいだは無音で、耳元に来て初めて存在を知らせてくる。しかも電気をつけると、ぴたりと消える。あれは物理的にどういう仕組みなのか、いまだに納得していない。深夜1時に電気をつけて、壁を10分ほどにらんで、何も見つけられずにまた消す。この攻防は毎年やっているのに、一度も勝った記憶がない。

途中で消した渦は、次の日にまた使える。理屈のうえでは使える。でも缶に戻す途中でだいたい折れる。半端な長さの弧が、缶の底に今3本たまっている。もう火をつける気もないのに、捨てられない。「まだ使えるから」と自分では思っているけれど、たぶん使わない。使わないまま夏が終わって、次の年の缶を買う。

「何事も最後まで」と言われて育った。本は最後まで読む、映画は最後まで観る、始めたことは最後までやる。それが正しいということになっていた。でも7センチだけ燃えた渦は、7センチ分の夜をちゃんと守っていた。全部燃えなければ意味がなかったわけではない。途中でやめたものにも、そこまでの働きは残る。読みかけで止まっている本が本棚に六冊あるけれど、あの六冊も、読んだところまではちゃんとわたしの中に入っている。最後まで行かなかったから無効です、という判定を下しているのは、たぶん本でも渦でもなく、わたしのほうだ。

皿の上には、燃えたぶんの灰が渦の形のまま残っている。そっとしておけば形は保たれるのに、片づけようとして持ち上げた瞬間にくずれる。あの灰は、燃える前の姿をちゃんと覚えている。覚えているのに、触れると終わる。だいたい三日に一度、外の水道で流している。灰が水に浮いて、白い筋になって流れていくのを、毎回なんとなく最後まで見ている。

夜中に一度、2時半ごろに目が覚めることがある。喉が渇いて台所まで行く途中、消し忘れた渦がまだオレンジの点を保っているのを見つける日がある。豆電球よりずっと弱い、ほとんど頼りない光だ。それを見ると、なぜかすこし安心する。怖くて消すくせに、消し忘れているとほっとする。自分でも整理がついていない。たぶん、火が怖いのではなくて、自分が管理していないあいだに何かが起きるのが怖いだけなのだと思う。起きていて見ているぶんには、同じ火がただの明かりになる。

缶は、押し入れの上の段に毎年ひとつずつ増えていく。中身が半分以上残ったまま、ふたの錆びた缶が四つ並んでいる。買った年をマジックで書いておけばよかったと毎年思うのに、毎年書かない。四つあるということは、この部屋で四回夏を越したということだ。夏を数える単位が、いつのまにか缶になっている。

全部を燃やしきらないと夏じゃない、なんて決まりはどこにもない。途中でやめたものが多い夏でも、それはそれで、ちゃんと過ぎていく。あなたが今年やりかけて置いたままにしているものも、たぶん7センチ分くらいは、もう役に立っている。

今夜もきっと、布団に入って3分で起き上がって、渦の先を皿の縁で消す。分かっていて、それでも夕方には火をつける。この矛盾は今年も解決しないまま、8月に入っていくのだと思う。缶にはまだ22巻ある。ぜんぶは、たぶん燃えない。

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