18時52分の各駅停車を待つホームは、屋根の下にいてもちっとも涼しくなかった。むしろ屋根が熱を溜め込んで、上からじわじわ焼かれているような気さえした。電光掲示板は「まもなく」の文字を出したまま、なかなかそのまま先に進まない。
線路の向こうを見ると、遠くの架線柱がゆらゆらと揺れていた。陽炎だった。アスファルトから立ちのぼる熱気が空気を歪ませて、本当は真っ直ぐ立っているはずの柱が、まるで水面に映った影みたいに波打って見える。蝉の声はさっきより少し弱まっていて、代わりに誰かのスマホから漏れる通知音が、ホームの静けさにやけに響いていた。
陽炎の向こうに、次に来る電車のヘッドライトがぼんやり滲んでいる。近づいてくるはずなのに、なかなか近づいてこない。輪郭がはっきりしないまま、ずっと揺れている。そのうち、これは電車を待っているんじゃなくて、揺れそのものを見ているんじゃないかという気がしてきた。
そういえば理科の授業で陽炎の仕組みを習った記憶がある。地面の熱で空気の密度が変わって、光が曲がって届くとかそんな話だったはずだが、正直テストの前日にしか覚えていなかった気がする。今こうして目の前で揺れているのを見ても、原理より先に「暑い」しか出てこない自分に、少しがっかりする。理科、あんなに勉強したのに。
今日という一日を、ホームでぼんやり振り返ってみる。朝は資料を作り直して、昼は誰かの機嫌を伺うようなメールを打って、午後はよくわからない会議に呼ばれて発言しないまま座っていた。帰り道、駅の階段を降りながら「今日はよくやった」と思おうとしたのに、いざ思い出そうとすると、何をどれだけやったのか輪郭がぼやける。頑張った実感だけが陽炎みたいに揺れていて、掴もうとすると逃げていく。
たぶん、頑張った日ほどそうなるんじゃないかと思う。余裕がある日は「今日はこれをやった」ときれいに並べられるのに、本当にいっぱいいっぱいだった日ほど、何をしたか思い出せない。忙しさが記憶を溶かしてしまうのだろうか。いや、違うかもしれない。忙しかったからじゃなくて、ちゃんと見てあげる時間がなかったから、記憶が形を持てなかったんだと思う。
ホームの端に置かれた温度計は38度を指していた。誰がこんな場所に温度計を置いたのか知らないが、見なくてもよかった情報を見てしまった気分になる。数字にされると、暑さが急に重たくなる。体感で「暑い」だけで済ませておけばよかったのに、38という数字が頭の中に居座って離れない。
隣に立っていた小学生くらいの子どもが、母親に「まだ来ないの」と何度も聞いていた。母親は「もうすぐだよ」と言いながら、自分のうちわで子どもだけをあおいでいた。自分はあおがれることも忘れて、ただ立って揺れる景色を見ていた。子どもの声だけが、この暑さの中で唯一新鮮な音だった。
ふと、電車も自分と同じように、どこかで揺れているのかもしれないと思った。定刻通りに走っているつもりでも、レールの上でわずかにたわみ、風にあおられ、実際にはちょっとずつ予定とずれている。それでも「まもなく到着」というアナウンスは変わらず流れ続ける。予定は揺れないふりをして、実際は揺れながらやってくる。それは電車も、今日の自分も、たぶん同じだった。
やがてヘッドライトの揺れが少しずつはっきりしてきて、レールの継ぎ目を鳴らす音が近づいてきた。近づくほどに輪郭がしっかりしてきて、揺れていた景色が急に静止する。到着した瞬間、あれだけ歪んでいた空気がまるで何事もなかったかのように収まっていた。揺れていたのは電車ではなく、間にあった暑さの層だったのだと、今さらながら気づく。
乗り込むと、冷房の効いた車内の空気がひやりと肌に触れて、さっきまでの揺れがなんだったのか忘れそうになる。窓の外を見ると、ホームに残された人たちがまた同じ陽炎の中に立っている。自分もついさっきまであそこにいたのに、もう少し先の涼しさに移ってしまうと、あの揺れの中にいた自分のことをすぐに忘れてしまいそうになる。
今日の一日も、たぶんそういうものなんだろうと思う。頑張った実感がうまく掴めなくても、揺れて輪郭がぼやけていても、それでも確かにそこに立っていた時間があった。証拠が欲しいわけじゃないのに、ちゃんとやった感じが欲しくなる自分がいて、それでいて欲しがったところで手には入らない。わかっているのに、まだ探してしまう。
電車の窓に映った自分の顔は、汗でTシャツの襟がよれて、ちょっとくたびれた顔をしていた。それでも、この暑い中を歩いてホームまで来て、揺れる景色をちゃんと見ていた。それだけで、今日はもう十分だったと思う。
あなたも今日、あの陽炎のような一日をちゃんと歩いてきたはずだ。輪郭がはっきりしなくてもいい。揺れながらでも、ホームには立てていた。それでいいんじゃないだろうか。
電車は次の駅に向かって走り出す。窓の外の景色がまた少しずつ滲んで、揺れて、後ろに流れていく。今日という一日も、たぶんあんなふうに、はっきりしないまま過ぎていくものなんだと思う。それでいい。輪郭がぼやけたままでも、確かに今日を生きた、という揺れだけが残っていればいい。
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