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十五夜の月、結局雲に隠れていた

19時46分。スマホで調べた月の出の時刻ぴったりに、わたしはベランダのサンダルをつっかけて外に出た。空はもう暗いのに、月はどこにもいなかった。かわりにあったのは、厚みのある灰色の雲が、東の空にべったりと居座っている光景だった。

近所のスーパーで買ったすすきは三本で398円だった。レジのおばちゃんが「今年最後だから」と言いながら袋に入れてくれたのを覚えている。最後というのが今年最後のすすきの入荷なのか、今日という日そのものを指していたのか、聞き返さなかった。すすきはベランダの隅の空き瓶に挿してある。穂先が風に少し揺れて、隣の換気扇の音と一緒に、なんとなく秋の匂いのする音を立てていた。

月見団子も買った。上新粉の匂いがまだかすかに袋の中に残っていて、白いのが十二個、丸く積まれている。皿に並べる前から、二個くらいはもう食べる気満々だった自分に気づく。月より団子、という言葉があるけれど、あれは案外正しい実感だったのかもしれない。

雲は動かなかった。正確には動いているのだろうけれど、わたしの立っている位置からは、同じ厚さの灰色がずっとそこにあるだけに見えた。10分待って、20分待って、そろそろ待つのに疲れてくる。わざわざ早起きして初日の出を見に行ったわけでもないのに、待たされているというだけで少し苛立ってくる自分がいて、その狭量さに自分でつっこみを入れたくなった。月に対して怒っても仕方がない。月は悪くない。悪いのは雲で、雲にも意志はない。

隣のベランダから、知らない誰かの声がした。「あ、だめだ、隠れてる」。姿は見えないけれど、声の感じからして、たぶんわたしと同じように空を見上げていた人がいたらしい。同じ雲に阻まれている人がこの街に何人いるのだろう、と考えかけて、そんな数を数えても仕方ないなと思ってやめた。

子どもの頃、祖母の家の縁側で月見団子を食べた記憶がある。あのときは月がちゃんと出ていたのか、それとも祖母がすすきを飾っていたことだけを覚えていて月の記憶はあとから勝手に足しているのか、正直もう自信がない。記憶というのは、見たものより見たかったものの方を残していくところがある。

20分待って、雲の端が薄くなった瞬間があった。ほんの2秒くらい、月というより月の輪郭のようなものが白くにじんで見えた気がした。見えた、と言い切っていいのかもわからないくらいの一瞬で、次の瞬間にはもう雲の奥に戻っていた。写真を撮ろうとスマホを構えたときにはもう遅かった。

…と、ここまで書いていて気づいた。わたしは月を見たかったのだろうか。それとも、月を見た夜という出来事が欲しかっただけなのだろうか。どちらでもいい気もするし、どちらも少し違う気もする。答えが出ないまま、団子を一個口に入れた。冷めていて、少し硬くなっていた。

結局、その夜は最後まで晴れなかった。21時を過ぎたころに諦めて部屋に戻り、団子だけ全部食べてしまった。十二個は多いと思っていたのに、気づけば皿は空になっていた。月は見えなかったのに団子は完食した、というこの帳尻の合わなさが、なんだかその夜らしいと思う。

来年の十五夜は、また違う雲が出るのだろう。同じ雲は二度と来ないし、同じ厚さの灰色ももう一度は見られない。晴れているかどうかさえ、来年になってみないとわからない。当たり前のことなのに、ベランダで空を見上げながらそれを思うと、少しだけ心細くて、少しだけ気楽でもあった。

すすきは瓶に挿したままにしてある。造花じゃないから、そのうち穂が開ききって、それから茶色く枯れていくのだろう。枯れる前提のものを部屋に飾るというのは、考えてみれば妙な習慣だ。でも枯れることも含めて秋なのだと思えば、まあそれもいい。

月が見えなかった夜のことを、こうして誰かに向けて書いている自分がすでにちょっとおかしい。何も起きなかった夜の話を、こんなに長々と。でも起きなかったことにも、待った時間の分だけ重さはあったと思う。あなたも今日、空をちらっとでも見上げただろうか。それだけで、じゅうぶんだ。

晴れなかった十五夜は、来年の十五夜が晴れるかどうかとは関係がない。今夜のことは今夜のこととして、雲の向こうに置いていくしかない。月は、見えても見えなくても、たぶん変わらずそこにあった。それだけわかれば、今夜はもう十分な気がしている。

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