23時40分、冷凍庫から氷枕を取り出す。表面にうっすら霜がついていて、指で触るとぱりっと音がしそうな冷たさがある。タオルで包んで、首の下に敷く。その瞬間だけ、今日という日がようやく終わった気がする。
氷枕というのは不思議な道具で、子どもの頃は熱を出したときにしか出てこなかった。母がタオルでくるんで額にのせてくれたあの重み。今はただ、暑いから、それだけの理由で毎晩使っている。病気でもないのに氷枕を抱いて寝る大人になるとは、小学生の自分は想像もしていなかっただろう。
ひんやりとした感触は、最初の10分がいちばん気持ちいい。首の後ろから頭の芯まで、じわっと冷えが伝わっていく。扇風機はもう疲れたのか生ぬるい風しか送ってこないし、冷房は26度に設定してあるのに体感は28度くらいある夜だった。それでも氷枕さえあれば眠れる、そんな気になっている自分がいる。
けれど、その冷たさは長くは続かない。1時間もすれば、枕はもうただの水袋になっている。表面はぬるく、中でちゃぷちゃぷと水が動く音がする。寝返りを打つたびにその音が耳元で鳴って、ああ、もう溶けてしまったんだな、とぼんやり思う。
一度、寝ぼけて氷枕を思い切り蹴飛ばしたことがある。床に落ちた瞬間、中の水がびしゃっと畳の上に広がって、朝5時にタオルで拭きながら「なんの修行だろう」と真顔になった。氷枕は静かに床で温くなっていた。あの音だけは、今も耳に残っている。
冷たさが続かないのはわかっている。わかっているのに、毎晩また凍らせて、また使う。溶けるとわかっているものを、それでも欲しがってしまう。矛盾しているなと思いながら、それでも冷凍庫を開けてしまう手を止められない。
そういえば、氷枕がぬるくなる速さと、眠りに落ちるまでの速さは、案外似ているのかもしれない。冷たいうちに眠れれば儲けもの、冷たさが切れる前に意識が落ちればそれでいい。朝まで冷たいままの氷枕なんて、この夏には一度もなかった。
朝起きて、ぬるくなった氷枕を触ると、なんだか少し寂しい。あんなに冷たかったのに、今はただの水の入った袋だ。でも、その水のおかげで眠れた夜があったことは事実で、溶けきったからといって無意味だったわけではないと思う。むしろ溶けきるまで、ちゃんと働いてくれたのだ。
朝の氷枕を見ていると、昨日の自分と今日の自分の境目のようなものを感じる。同じ夜はもう二度と来ない。今夜また凍らせても、それは昨日とは違う夜の、違う冷たさになる。当たり前のことなのに、水袋を眺めているとなぜかそれが妙にしみじみと胸に入ってくる。
冷凍庫を開けるたび、製氷皿の隅にできる小さな氷の欠片が気になる。あれはいつか使うつもりで放置しているのだけれど、結局溶けてまた水に戻る。氷枕も製氷皿の氷も、この家の中で凍っては溶けてを繰り返している。何かを保存できているようで、実は何も保存できていない。そんな夏の台所の話。
冷たいものはいつか溶ける。それを承知の上で、それでも今夜も氷枕を凍らせにいく自分がいる。完璧に涼しい夜なんて、この部屋にはたぶんこれから先も来ない。それでも、冷たかった10分のために凍らせる価値はあると思っている。
あなたも今日、暑い中をよく過ごした。汗をかいて、扇風機の生ぬるい風にため息をついて、それでも夜まで辿り着いた。それだけで十分だと思う。
氷枕が水になることを、失敗だとは思わない。冷たさが仕事を終えた証だと思うことにしている。溶けた水も、また凍らせればいい。何度でも、同じことを繰り返せばいい。
結局、今夜もタオルで氷枕を包みながら、また同じことを考えている。冷たいのは最初だけ。それでもいい。冷たい10分のために、また明日も凍らせよう。そう思いながら、ぬるい部屋の中で目を閉じる。
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