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保冷剤、溶けきるまでしか涼しくなかった

22時40分、玄関のドアを開けた瞬間に、外の熱気がまだ体にまとわりついているのがわかった。エアコンの効いた部屋に入っても、しばらくは汗が引かない。そういう夜は、冷凍庫を開けて、いちばん大きい保冷剤を取り出すことにしている。

うちの冷凍庫には、いつからあるのかわからない保冷剤が四つも五つも眠っている。ケーキを買ったときについてきたやつ、お中元の桃に入っていたやつ、名前も覚えていない何かの付属品。捨てるタイミングを逃したまま、律儀に凍り続けている。冷凍庫の中で、いちばん静かに、いちばん長く生きているのが保冷剤だと思う。

それをタオルでくるんで首の後ろに当てる。ひやりとした感触が皮膚を通り抜けて、体の奥のほうまですっと届く。この瞬間だけは、今日一日のことをちょっと忘れられる。上司に言われたこと、返信できていないメッセージ、明日の会議の資料。全部が保冷剤の冷たさの向こう側に、いったん退いていく。

でも、その涼しさは長くは続かない。10分も経つと、タオルの表面がじんわり湿ってきて、保冷剤の芯の冷たさがぼんやり丸くなってくる。20分もすれば、もうただの生ぬるいゲルの塊だ。溶けきる前の、あの中途半端に冷たいでも冷たくない時間がいちばん切ない。涼しさが逃げていくのを、肌で追いかけているような感じがする。

溶けきったら、また冷凍庫に戻す。そしてまた凍るのを待つ。この繰り返しを、もう何年やっているんだろう。8月が来るたびに同じ保冷剤を出して、同じように溶かして、同じように戻している。同じ夏はもう二度と来ないはずなのに、保冷剤だけは律儀に同じ役目を果たしている。そのことに、なんとなく安心してしまう自分がいる。

頑張ることも、これと似ているのかもしれないと、ふと思った。気合を入れて何かに取り組むとき、最初のうちはすごく調子がいい。頭が冴えて、手が動いて、これならいけると思う。けれどその状態は、たいてい長続きしない。1時間もすれば集中力は溶けはじめて、気づけばスマホを触っている。保冷剤の涼しさと同じくらいの寿命しか、集中力にはないのかもしれない。

…と、ここまで書いて気づいた。だったらもう、集中も涼しさも、最初から短いものだと思って使えばいいんじゃないか。溶けきるまでの20分だけ効けばいい、くらいの気持ちで保冷剤を当てれば、溶けたあとのがっかりも減る気がする。いや、それでもやっぱり、冷たさが消えていく瞬間はどこかさびしい。理屈でわかっていても、さびしいものはさびしい。

会社では「継続力」だとか「安定したパフォーマンス」だとか言われる。ずっと涼しいままでいてほしい、というのが会社の本音なんだろう。でも人間は保冷剤よりよっぽど頼りない。凍らせ直す時間もろくにもらえないまま、次の仕事、次の締め切りへと放り込まれていく。冷凍庫に戻す暇もなく使われ続ける保冷剤があったら、それはもうただのぬるいゲル袋だ。

そう考えると、今日の自分がやたら疲れているのも当然な気がしてくる。凍らせ直す時間を、ずいぶん省略してきた自覚がある。土日も何かしらの用事を入れて、夜も遅くまでスマホを見て、休むことを休むように扱ってきた。溶けきったまま冷凍庫に戻さず、また外に出していたようなものだ。それは冷たくならなくて当たり前だった。

保冷剤をもう一度冷凍庫に入れて、扉を閉める。あの薄暗い庫内で、また静かに凍っていく時間が始まる。誰にも見られていないところで、ちゃんと冷たさを取り戻していく。人間もそういう時間が必要なんだろう。誰にも見られていない、成果にもならない、ただ回復するためだけの時間。カレンダーには何も書けない時間。

窓の外から、遠くの家の換気扇の音と、途切れがちな虫の声が聞こえてくる。26.5度に設定したエアコンが、静かに部屋の空気をかき混ぜている。この温度に落ち着くまで、うちのエアコンとはもう何年も相談してきた気がする。暑すぎず、電気代も許せる、その絶妙な妥協点。人間関係よりよっぽど平和に停戦している。

冷たいタオルを外して、洗面所で顔を洗う。鏡に映る自分は、まだ少し疲れた顔をしているけれど、さっきよりは少しましに見える。完全に涼しくなったわけじゃない。ただ、20分だけ涼しかった時間があった、それだけのことだ。それだけのことが、今日はけっこう大きかった。

あなたも今日、暑い中をよく歩いた。よく働いた。よく耐えた。保冷剤みたいに、ずっと冷たいままでいる必要なんてない。溶けたらまた凍らせればいい。それだけの単純な仕組みを、人間はどうしてこんなに忘れやすいんだろう。

明日もきっと同じように暑くて、同じように疲れて帰ってくるんだと思う。それでも冷凍庫には、また保冷剤が待っている。溶けきるまでの短い涼しさしかくれないやつだけど、それでいい。長く効かなくても、ちゃんとそこにいてくれる。それだけで、今夜はもう十分だった。

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