金曜の夜、気づいたら、ひとりで定食屋ののれんをくぐっていた。「お一人様ですか」「はい」。なんでもないやり取りだけれど、この「はい」が言えるようになるまで、私は10年かかった。
学生の頃は、ひとりで飲食店に入れなかった。ラーメン屋の前まで行って、ガラス越しに店内を見て、引き返したことが何度もある。ひとりで食べている姿を見られたら負け、という謎のルールが、あの頃の私の中にはあった。誰と勝負していたのかは、今もわからない。
初めてひとりで定食屋に入った日のことは、変に細かく覚えている。緊張して、注文の前に水を2杯飲んだ。生姜焼き定食と決めていたのに、口から出たのは「唐揚げ定食で」だった。なぜだ。運ばれてきた唐揚げを、私は反省しながら食べた。おいしかったのが、また悔しかった。
何度か通ううちに、気づいたことがある。誰も、こっちを見ていない。カウンターの右の人は夕刊を読んでいるし、左の人はスマホで野球速報を見ている。みんな自分の飯と自分の画面に忙しい。「見られている」は、ほとんど全部、自意識が作った幻だった。
ひとりごはんには、ひとりごはんの自由がある。熱いものを、熱いうちに、自分のペースで食べられる。会話を続ける義務がない。食べたいものを、誰にも合わせずに選べる。唐揚げと言い間違えることはあるが、それも自由のうちだ。
定食屋のテレビは、なぜかいつも夕方のニュースを流している。知らない街の祭りの中継を、味噌汁をすすりながらぼんやり眺める。あの時間はいったい何なんだろう。何でもない。何でもないのだが、悪くない。
ひとりで入れるようになってから、行動範囲が広がった。「誰か誘えたら行こう」と思っていた店に、「今日行こう」と思える。予定を合わせる工程がまるごと消えて、人生の選択肢がひとつ増えたような感覚がある。
これは強くなったのだろうか。それとも、何かを諦めたのだろうか。…と、たまに考えるが、生姜焼きがおいしいので、どっちでもいい気がしている。
ただ、あの頃いつも一緒に食堂へ行った友人たちとは、もうほとんど会わなくなった。ひとりで食べられるようになった分だけ、誰かと囲む鍋が、たまに妙に沁みる。どちらかしか選べないわけでもないのに、人生はなんとなく、ひとりの側へ進んでいく。それが少しさびしくて、でも、たぶんそういうものなのだと思う。
今夜ものれんをくぐる。「お一人様ですか」「はい」。その「はい」の後ろに、若干の誇りと、ほんの少しのさびしさが、両方くっついている。両方あって、ちょうどいい。
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