8月最初の日曜、朝の7時半にベランダへ出て、買ってきたばかりの向日葵の鉢を置いた。花屋の軒先で998円だった。茎はもう私の腰くらいまで伸びていて、つぼみの先が少しだけ黄色くのぞいていた。店員さんが「もうすぐ咲きますよ」と言った声のトーンが、なぜか天気予報の「明日は晴れます」に似ていて、それだけで少し得した気分になった。
土を触ると、思っていたより冷たかった。じょうろで水をやると、ぽたぽたという音のあとに、土がふっと沈むような気配がある。あれはたぶん、渇いていた分だけ土が水を飲み込む音なんだと思う。蝉の声はもう7時台からうるさいくらいで、遠くでミンミンゼミとアブラゼミが張り合っているのが聞こえた。どちらも自分の声しか聞いていないみたいだった。
向日葵は太陽の方を向く、と子供の頃に教わった。理科の教科書か、母の受け売りか、忘れたけれど、とにかくそう信じて疑わなかった。だから鉢を置いた場所も、朝日がよく当たる東向きのベランダの端にした。これで毎朝、健気に首を動かす姿が見られるはずだった。
ところが3日経っても、5日経っても、花はまったく同じ方向を向いたままだった。私は毎朝出勤前に鉢の前にしゃがみ込んで、首の角度を確認した。9時の位置で固定されたみたいに、ずっと東の少し北寄りを見ている。太陽はどんどん南寄りに昇っていくのに、花は律儀にそこを動かない。裏切られた、というのは大げさだけれど、少しだけ拍子抜けした。
気になって調べようとスマホを開きかけて、やめた。答えを検索で埋めるより、しばらく自分の目で見ていたかった。それで毎日観察を続けているうちに、なんとなくわかってきたことがある。たぶん、太陽を追うのはつぼみのうちだけで、花が開いたらもう、ひとつの方角を決めて動かなくなるんだと思う。証拠があるわけじゃない。ただ、うちの鉢を見ている限り、そうとしか思えなかった。
それに気づく前、私は何をしていたかというと、鉢ごと持ち上げて太陽の方向にくるっと回していた。花に向いてほしくて、私が花を回していたのだ。書きながら気づいたけれど、これはもう向日葵じゃなくて私が向日葵のふりをしていただけかもしれない。滑稽すぎて、自分で自分に笑ってしまった。
咲く前は誰だって前を向いている。就活生も、新人の頃の私も、たぶんつぼみの向日葵と同じであちこち首を振って、光がいちばん強い方向を探していた。それが形になった途端――肩書きがつき、部署が決まり、生活のかたちが定まった途端――なぜかもう動かなくなる。向きを変えることに、途中から臆病になっていくのかもしれない。
でも、それを「向日葵らしくない」なんて誰も責めない。ただそこに立って、決まった方角を見ているだけの姿を、みんな綺麗だと言って写真に撮る。動かないことは、悪いことじゃない。むしろ動かなくなったからこそ、あの黄色い顔はどっしりと座りがいい。動いていた頃より、今のほうが向日葵らしいと言う人もいるだろう。
わかっているのに、私はまだ毎朝鉢を覗き込んで、「今日は向いてくれるかな」と期待している。期待しては裏切られ、裏切られては次の日また覗く。これがもう2週間続いている。学習能力がないと言われれば、その通りだと思う。
花屋の袋に描かれていた向日葵は、満開で、茎もまっすぐで、太陽みたいに堂々としていた。うちの鉢は、8月の直射でところどころ葉が縮れて、茎も少し斜めに傾いている。イラストと実物がここまで違うことに、種を蒔く前は気づかなかった。まあ、思えば自分の人生設計図と現状も、大体こんな感じの落差だったなと、ふと重なった。
きのうの最高気温は38度だった。ニュースで見た数字より、ベランダの土の乾き方のほうが正直だった。水をやっても2時間でもう表面が白っぽくなる。それでも花は、決めた方角を見つめたまま倒れずに立っていた。
この記事をここまで読んでくれたあなたも、たぶん今日、暑いなかをちゃんと歩いてきたはずだ。向きを変えられないまま立っている自分を、少し情けなく思う日もあるかもしれない。でもそれは、つぼみの頃に精一杯首を振って、もう向くべき方向を見つけたからこそのことなのかもしれない。
向日葵はあと1週間もすれば、頭を垂れはじめるだろう。種を残すために、上を向くのをやめて下を向く。あんなに一途に一方向を見ていた花が、最後には自分の重みでうなだれていく様子は、正直ちょっと寂しい。来年もまた同じ花屋で、同じような鉢を買う気がする。学習しないところも、たぶん私らしいところだ。
太陽を追わない向日葵を見て、裏切られたと思った朝から、もう2週間。今はもう、動かないことも含めてこの鉢が好きだ。向いてほしい方向に向いてくれなくても、そこに立っていてくれるだけで、ベランダの風景はずいぶん違って見える。がんばって向きを変えなくても、そのままでいい理由が、案外そこら中に転がっているのかもしれない。
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