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彼岸花、今年も同じ場所に咲いていた

9月17日、朝7時52分。駅までの道の途中、いつもの土手にそれが咲いているのに気づいた。彼岸花だった。去年もここに咲いていたな、と思いながら、今年もまた律儀に同じ場所から生えていることに、なんとなく足が止まった。

色がすごい。赤というより、赤という言葉では足りない赤で、朝の白っぽい光の中でそこだけ発光しているように見える。近づいても匂いはしない。花なのに匂わないというのが、彼岸花のいちばん彼岸花らしいところだと思う。派手な見た目のわりに、静かなのだ。主張しているようで、実は何も主張していない。

蝉の声はもうほとんど聞こえなくなっていた。数日前まではあれほどうるさかったのに、いつの間にか静かになっている。かわりに、どこかで一匹だけツクツクボウシが鳴いていた気がしたが、確かめる前に電車の音にかき消された。夏の終わりというのは、いつも誰かに気づかれないまま静かに撤収していく。

子供の頃、彼岸花は摘んではいけない花だった。「摘むと家に死人が出る」と、近所のおばあさんに真顔で言われたのを覚えている。今思えば球根に毒があるから触るなという生活の知恵だったのだろうが、当時の私にとってはただの怖い花だった。赤くて、毒々しくて、名前に「彼岸」なんて字がついている。子供心にも、これは近づいちゃいけない類の美しさだと直感していた気がする。

それにしても、と思う。彼岸花はどうしてこうも律儀に、毎年同じ場所から、しかもお彼岸の時期にぴったり合わせて咲くのだろう。誰かが植えたわけでもないのに。私はといえば、去年立てた「毎朝ストレッチをする」という目標を、9月にしてすでに三日坊主どころか三日にも満たなかった。花に律儀さで負けている人間がここにいる。

土手の彼岸花を見ながら、そういえばお彼岸だ、と思い出す。実家の墓には、去年もその前の年も行っていない。今年も、たぶん行かない。行かなきゃな、とは毎年思うのだ。思うのだが、思うことと行くことの間には、なぜかいつも大きな溝があって、気づけばまた一年が経っている。

母には去年、電話で「お彼岸くらい顔出したら」と言われた。「うん、そうだね」と答えて、結局出さなかった。今年もきっと同じことを言われて、同じように「うん、そうだね」と答えるのだろう。自分でもわかっている。わかっているのに、できない。それでも、母はたぶん今年もそこまで怒らない気がしている。それが少しありがたくて、少し申し訳ない。

彼岸花を見ていて、ふと思ったことがある。この花は毎年同じ場所に咲くから「今年も咲いている」と言ってしまうけれど、厳密には去年のあの花はもう枯れて、今年のこれは別の球根から出てきた別の花のはずだ。同じに見えて、同じではない。私が「去年もここにいた」と思っている彼岸花に、去年の彼岸花は一つも混ざっていない。

……と、ここまで書いて気づいたのだが、これは彼岸花だけの話ではないかもしれない。去年の私と今年の私も、同じ駅の同じホームに立っているようでいて、たぶんどこかしら違う人間になっている。何が変わったのかと聞かれると、うまく説明できないのだけれど。

駅前の温度計は8時の時点で28度と出ていた。まだ暑い。でも風の質は明らかに変わっていて、汗の乾き方がひと月前とは違う。あの頃はタオルで拭いてもすぐべたついたのに、今朝は自然に乾いていく。季節はこういう小さいところから、先に秋になっていくらしい。

会社に着いて、同僚に「彼岸花見た?」と聞いたら、「あー、あれ怖いよね、なんか」と言われた。怖い、という感想がまだ生きていることに少し安心した。私だけが子供っぽく怖がっているわけではなかったらしい。誰かと同じ感覚を共有できただけで、その日はちょっと機嫌がよくなった。そのくらいの理由で機嫌が上下する自分にも、まあいいかと思う。

結局、今年もお墓には行かないと思う。彼岸花のように律儀にはなれない。でも土手のあの花を見て、ちゃんと立ち止まって、ちゃんと去年のことを思い出したのだから、それも一種の墓参りみたいなものだと、勝手に思うことにした。都合のいい解釈だとわかっているけれど、今日はそれでいいことにする。

あなたも今日、通り道のどこかで何かに気づいて、少し足を止めたのではないだろうか。それだけで、たぶん十分なのだと思う。彼岸花は来年もきっとあの場所に咲く。そのとき私がまた同じように立ち止まるかどうかはわからないけれど、それでいい。同じようで違う私たちが、同じようで違う花の前を、今年もただ通り過ぎていく。それだけの、静かな9月だった。

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