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半袖と長袖の間で、ずっと迷っている

9月14日、朝6時50分。天気予報は27度と出ていたけれど、ベランダに出た瞬間、二の腕にさっと鳥肌が立った。クローゼットの前で、半袖のTシャツと七分袖のカットソーを両手にぶら下げたまま、しばらく立ち尽くす。今日は結局、どちらでもない、中途半端な五分袖のカーディガンを羽織って家を出た。

こういう朝が、9月に入ってからずっと続いている。昼はまだ蝉が申し訳程度に鳴いているのに、夕方6時を過ぎるとカーテンの向こうがもう青っぽい。電車の中は冷房が強くて、駅を出ると外は蒸している。体温調節というものを、この時期だけずっと機械みたいに続けている気がする。

去年の今頃、自分はどんな服を着ていただろうと思って、スマホの写真を遡ってみた。9月17日の写真には、半袖にストールを巻いた自分が写っていた。ストールなんて、今のクローゼットのどこにしまったかも思い出せない。一年前の自分の判断を、今の自分はもう再現できない。それだけのことなのに、なんだか少し寂しかった。

服のことだけならまだいい。困るのは、この「決められなさ」が仕事にまで漏れ出してくることだった。提案書のフォントを明朝にするかゴシックにするかで15分悩み、結局どちらも試してから最初に戻す。ランチをコンビニにするか外に食べに行くか改札の前で3分立ち止まる。決められない自分を、ずっとどこかで責めてきた気がする。

でも、と書きながら思う。決められないのは、優柔不断だからというより、季節そのものが決まっていないからではないか。9月というのは、夏でも秋でもない、名前だけ先に「秋」を名乗っている変な月だ。空気のほうがまだ迷っているのに、こっちだけ潔く決められるはずがない。

……と、ここまで書いて気づいたけれど、これはただの言い訳かもしれない。いや、言い訳でもいいのかもしれない。誰に対する言い訳でもないのだから。

会社の後輩は、この時期になると必ず「衣替え、まだ半分しか終わってないんですよね」と笑っている。聞くと、夏物を全部しまう前に、なんとなく怖くて長袖を数枚だけ出しておくのだという。あれは正しいと思う。全部を切り替える勇気なんて、そんなに毎年湧いてくるものじゃない。

私の場合、衣替えというより「気分替え」がうまくいっていない。8月の終わりに、来月からは早起きしよう、飲み会を減らそう、と手帳に書いたのに、9月に入ってもだらだらと0時過ぎまでスマホを見ている。カレンダーが変わっただけで人間まで変わるわけがないのに、毎回そこを見誤る。

半袖と長袖の間の五分袖という選択は、だから、案外正直な自分の姿なのかもしれない。夏の名残を手放したくない気持ちと、秋の気配にちゃんと合わせなきゃという気持ち、そのどちらも切り捨てずに、両方をちょっとずつ着ている。

駅前のクリーニング屋の軒先には、もう「冬物受付中」の紙が貼られていた。まだ半袖でホームに立っている人の横で、その紙だけが先に季節を進めている。世の中は勝手にどんどん次へ行こうとするけれど、こっちの体感はいつも一歩遅れてついていく。それでいいと思う。急いで追いつく必要は、たぶんどこにもない。

今朝も結局、五分袖のカーディガンのまま家を出た。電車の中で少し肌寒くて、降りたら少し暑かった。ちょうどよかった瞬間は、たぶん一度もなかった。それでも、その「ちょうどよくなさ」ごと今日という日だったのだと思うと、なんだか悪くない気がしてくる。

考えてみれば、去年の9月14日も、今日と同じ気温だったかどうかなんて誰にもわからない。同じような迷い方をした日は、もう二度と戻ってこない。来年の9月にはまた別の服を着て、別のことで立ち止まっているはずだ。今日のこの中途半端さは、今日限りのものなんだと思うと、少しだけ愛おしい。

半袖と長袖のどちらかに、いつか自信を持って決められる日が来るのだろうか。いや、来ないかもしれない。毎年同じところで同じように立ち止まって、それでも家は出られている。今日もちゃんと、駅まで歩けた。それだけで、十分だったんじゃないかと思う。

季節も気持ちも、はっきり二つに分かれてくれるわけじゃない。そのあいまいな真ん中を、五分袖みたいな中途半端さのまま歩いていく。それでいいし、それしかできない。今日もよく、迷いながら外に出た。それだけで、もう十分だ。

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