10月3日、23時過ぎ。歯を磨こうと洗面所の蛇口をひねったら、水が思っていたより冷たくて、手を引っ込めそうになった。夏のあいだはぬるいとさえ感じていた水道水が、いつのまにか指先に刺さるようになっている。季節の変わり目というのは、カレンダーより先に、蛇口から教えてもらうものなのかもしれない。
手を洗い終えて、タオルで拭きながらなんとなく自分の手の甲を見た。見るつもりはなかった。でも見てしまった。白い粉を吹いたような、細かい線がうっすら入ったような、あの感じ。ああ、またこの季節が来た、と思うより先に、うわ、と声が出た。手だけが、先に秋を受け入れてしまっていた。
洗面台の下の棚を開けて、ハンドクリームを探した。去年のがあったはずだ、と思いながら、歯ブラシのストックとか、使い切れていない試供品のシャンプーとか、意味のわからない輪ゴムの束とかをかき分けて、ようやくチューブを見つけた。見つけたときにはもう手が冷えきっていて、探している間にかさつきがさらに進んだ気さえした。本末転倒とはこのことかもしれない。
キャップを開けようとしたら、硬い。口のところで白く固まっていて、最初の一押しがびくともしない。力を込めてひねったら、ぷしゅ、という頼りない音とともに、ようやく少しだけ出てきた。中身は半分も残っていなかった。去年の自分が、この続きを使い切らずに夏を越えていたということだ。使いかけのまま放置されたハンドクリームほど、持ち主の性格を正直に語るものはないと思う。
匂いを嗅いだ瞬間、去年の秋の記憶がふっと蘇った。といっても、何か特別な出来事があったわけではない。ただ、去年の今ごろも同じように手がかさついて、同じようにこのチューブを探して、同じように硬いキャップに苦戦していた、というだけのことだ。進歩がないと言えばその通りだし、毎年同じ儀式を繰り返せているとも言える。どちらの受け止め方をするかは、たぶん気分次第だ。
手の甲に乗せた瞬間はひんやりしていたのに、指でのばしているうちにだんだん体温に馴染んでいく。あの温度の変化が、妙に安心する。冷たいものが自分の熱で温かくなっていく感覚は、何かをちゃんと世話したときにしか起きないものだと思う。放っておいたら、ただ冷たいままだった。
のばしながら、ふと、祖母の家の洗面所を思い出した。古いタイプの、取っ手をひねると油がきしむような音がする蛇口があって、その横にいつも同じ青い缶のクリームが置いてあった。使うたびに祖母が「手も顔と同じで、ちゃんと水かけてやらなきゃ可哀想よ」と言っていたのを、なぜか今ごろ思い出す。あのときは「手が可哀想」という言い回しがよくわからなかったけれど、今は少しわかる気がする。わかりたくなかった気もする。
季節の変わり目は、気持ちより先に体の方が反応する。暑いと思っていた日々が終わって、急に肌寒いと感じる朝が来て、でも頭ではまだ「もう少し暑いはず」と思い込んでいたりする。そのズレに気づかせてくれるのが、いつも些細な場所だ。手の甲とか、足の裏とか、鼻の奥とか。大げさな季節の便りよりも、こういう体の端っこのほうがよっぽど正直に季節を知らせてくる。
そういえば去年、同じようにハンドクリームを見つけて、「今年こそは毎日塗ろう」と決意したはずだった。決意したことすら、今日チューブを開けるまで忘れていた。人は変わらない生き物だなと、ここまで書いて少し笑ってしまった。いや、笑いごとではなく、それでいいのかもしれない。毎年同じところでつまずいて、毎年同じクリームを塗って、そのくり返し自体が、季節が巡っている証拠のようにも思える。
手を洗うたびに、水の冷たさにびくっとする自分がまだしばらく続くのだろう。かさつきに気づくたびに、ああ今年もか、と思うのだろう。わかっているのに毎回新鮮に驚くのは、ちょっと間抜けだけれど、それもまあ悪くない。驚けるということは、まだちゃんと自分の体に注意を払えているということでもある。
今日、何度も水に触れたあなたの手も、きっと少し乾いている。洗い物をしたあとか、誰かと握手をしたあとか、ただ寒い外を歩いてきたあとか。理由はどうでもよくて、その手はちゃんと今日という日に触れて、仕事をしてくれた。労ってあげてほしい、なんて偉そうなことは言えないけれど、クリームの蓋くらいは開けてみてもいいと思う。
去年の半分残ったチューブは、今年もまた使い切れずに冬を越すかもしれない。それならそれでいい。来年の秋、また同じ棚から見つけ出して、同じように硬いキャップに手こずって、同じように少し笑いながら塗ればいいのだと思う。完璧に続けられなくても、毎年ちゃんと手は秋に気づいて、ちゃんとそれに応えようとしている。それだけで、十分やれている気がする。
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