20時10分、ドン、と鈍い音がして、窓ガラスがほんの少し震えた。三駅先の河川敷で、毎年この時期にやっている花火大会だ。わたしは部屋着のまま、床に座って麦茶を飲んでいた。行かなかった。行けなかったのではなく、行かなかった。この二つは似ているようで、自分の中ではぜんぜん違う場所に置いてある。
行こうと思えば行けた。電車で12分、駅を出て歩いて8分。去年もらったうちわもまだ靴箱の上にある。ただ18時を過ぎたあたりで、「着替える」という工程が、急に登山みたいな高さに見えてきた。人が一日に決められることの回数には、たぶん上限がある。その日はもう、昼のうちに使い切っていた。何を決めたのかと聞かれても、大したことはひとつもない。会議の日程を二回動かして、お昼にどっちの弁当にするか五分迷って、返信の文末を「よろしくお願いします」にするか「お願いいたします」にするかで一分止まった。そんなもので上限が来るのかと思うけれど、来るときは来る。
この大会のポスターは、駅前のコンビニのガラスに7月の頭から貼ってある。「市民納涼花火大会」という、いかにも役所が考えた名前が入っていて、その下に打ち上げ数と協賛企業の名前が細かく並んでいる。毎朝その前を通っていたのだから、日付は完全に把握していた。把握していたうえで、当日の夕方に着替えないという選択をしている。準備期間が三週間あっても、決断は当日の18時に全部かかってくる。
音だけが届いて、光は見えない。ベランダに出ると、向かいのマンションと電柱のあいだ、幅にして20センチくらいの隙間の空が、一瞬だけ薄い桃色になる。花火そのものではなくて、花火が空に置いていった色の余りだ。おこぼれ、という言葉が浮かんで、われながら卑屈だなと思ったけれど、そのおこぼれは思ったよりきれいだった。
光ってから、音が来るまでに3秒ほどある。音は1秒に340メートル進むから、だいたい1キロ先ということになる。ベランダの手すりに肘をついて、1キロか、と声に出さずに思った。1キロ先で、何万人かが同じ空を上に向いて見ている。こちらは下を向いて距離を計算している。同じ花火の下にいるのに、やっていることがずいぶん違う。
麦茶のポットは、朝に沸かした分が三分の一くらい残っていた。氷を二個だけ入れて、グラスの内側が白く曇るのを見ていた。テレビはつけなかった。つけると音が二重になって、どっちを聞いているのか分からなくなる気がしたからだ。理由としては弱い。ほんとうは、リモコンが座っている場所から1メートル先にあったというだけかもしれない。
小学生の頃は、音より先に光だった。父の肩の上から見ていたから、視界に何もさえぎるものがなかった。屋台のベビーカステラが9個入りで、袋の底に砂糖が残るのが好きだった。あの頃のわたしは、花火の音を「大きいな」としか思っていなかったと思う。距離を計算する発想がそもそもなかった。
屋台のくじ引きで、当たった記憶が一度もない。景品の上のほうにいつも大きなラジコンが吊るしてあって、あれが誰かの手に渡るところを見たことがない。りんご飴も毎年買っていたけれど、あれは食べにくさで有名な食べ物なのに、なぜ毎年買っていたのか自分でも分からない。半分残して、手がべたべたになって、母に怒られるところまでが毎年ワンセットだった。
途中で、冷凍庫にアイスが残っていたかどうかを確認した。なかった。コンビニまで歩いて4分。行くかどうか3分くらい真剣に悩んで、結局行かなかった。花火大会に行かなかった夜に、コンビニにも行かないでいる。移動距離ゼロ。その代わり麦茶を注ぎ足した。人生でいちばん省エネな祭りの過ごし方かもしれない。
ベランダにいたら、隣の部屋の人も出てきた。三十代くらいの、たぶん一人暮らしの人だ。目が合って、お互い小さく会釈した。それから二人とも、何も言わずに同じ20センチの隙間を見ていた。話しかけるような距離でもなく、部屋に戻るような気まずさでもなく、ただ並んで空を見ていた時間が、たぶん5分くらいあった。その人も行かなかったんだな、と思った。行かなかった人が二人、ベランダに出て、同じ20センチの隙間を見上げている。行かなかった理由は違うだろうし、聞くつもりもない。ただ、この建物の中に自分だけが取り残されているわけではないという事実は、思っていたよりずっと効いた。
音のリズムは、終わりが近づくと勝手に教えてくれる。間隔がだんだん詰まって、最後は途切れなく重なる。ドンドンドン、と胸のあたりに来る。始まりの時刻は知らなかったのに、終わりだけははっきり分かる。そういうものは世の中にけっこう多い気がする。始まりに気づかないまま、終わりだけ正確に受け取る。友達と連絡を取らなくなるのもそうだし、好きだったものを聴かなくなるのもそうだ。最後に会った日を、最後だと思って過ごした記憶がない。終わりのほうが、いつも親切に予告してくる。
どこかの家の犬が、花火が上がるたびに一回だけ吠えていた。連発になっても一回だけ。びっくりして吠えているというより、確認しているような鳴き方だった。二時間ちかく、律儀に一回ずつ返事をしていたことになる。飼い主はどう思っていたのだろう。うるさいと思ったのか、頑張るなあと思ったのか。犬のほうがよほど花火大会に参加していた。
20時47分、音が止んだ。急に静かになって、部屋の中の音が戻ってくる。エアコンの低い唸りと、冷蔵庫がときどき思い出したように鳴る音。さっきまで空を叩いていた音があった場所に、生活の音がゆっくり戻ってくる感じがした。祭りのあとの静けさというのは、静かというより、部屋が急に広くなる感じに近い。
いまごろ河川敷にいた人たちは、一斉に駅に向かって歩いているはずだ。人の流れができて、屋台の匂いを連れたまま、改札で詰まって、電車を何本か見送っている。その中にわたしはいない。いないことを自分で選んだのに、その事実を思い浮かべると、ほんの少しだけさびしい。選んだのにさびしいというのは、いったいどう扱えばいいんだろう。
あなたも今日、行かないことを決めたなら、それはちゃんとした判断だと思う。怠けたのではなくて、たぶん一日分の何かをもう使い切ったあとの、まっとうな結論だ。うちわを持って出かけた人の夜も、麦茶を注ぎ足しただけの夜も、同じ日の同じ空の下にあった。どちらかが本物の夏、ということはない。
来年は行こう、と思いながら食器を片づけた。ただ、たぶん来年も同じ部屋で、同じ隙間の空を見ている気もしている。思っていることとやることが噛み合わないまま、毎年ここに立っている。それでもいいのだと思う。今年のあの震え方は今年きりで、同じ揺れ方をする窓ガラスは、もう二度と来ない。それだけは、部屋にいても平等に受け取っていた。
← 記事一覧にもどる