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ハロウィンのお菓子、結局自分で食べた

スーパーのレジ前に、オレンジと紫の袋がどっさり積まれていた。十月十四日、まだハロウィンまで二週間以上あるのに、もう棚の三段分がそれで埋まっている。コウモリの形のチョコと、カボチャの顔をしたキャンディが、透明の個包装の中でこっちを見ている。見ているような気がしただけかもしれない。

どうせなら、と思って一袋買った。十五個入り、398円。会社の人に配ろうと思ったのだ。隣の席の人とか、たまに雑談する経理の人とか、そういう人にひとつずつ渡したら、ちょっと空気がやわらかくなる気がした。そういう計算を、レジでお金を払いながらしていた。

でも配れなかった。配るタイミングというのは、思っていたよりずっと狭い入口をしている。朝は忙しそうだし、昼は昼で各自ばらばらに食べているし、夕方には「今さら」という空気が勝手に出来上がっている。気づけば十月二十一日になっていて、袋はデスクの一番下の引き出しに入ったままだった。

引き出しを開けるたび、袋の口からコウモリチョコの尖った耳が覗いている。見るたびに、今日こそは、と思う。思うだけで、手は別の書類を取り出している。これは意志の弱さというより、たぶん勇気の問題だ。「お菓子どうですか」と言う一言が、思っているより重い。

結局、最初のひとつを開けたのは自分の机でだった。十四時四十二分、眠気覚ましのつもりで引き出しを開けて、配る相手を探す前に、自分の口に入れた。カボチャのキャンディは思ったより甘くて、奥歯にしばらく張りついていた。あ、これ配るやつだったのに、と思いながら、もうひとつ手が伸びていた。

それから数日、仕事の合間にひとつ、帰りのバスでひとつ、という具合に減っていった。十五個あった袋は、気づけば五個になっていた。配るつもりで買ったものを、自分ひとりで食べ進めている図というのは、なかなか間抜けだ。誰にも見られていないのに、少し恥ずかしい。

子どもの頃のハロウィンは、もらう側だった。近所の家を回ったことはないけれど、学校であった小さなパーティーで、先生から配られるお菓子を列になって待っていた記憶がある。あのときは、もらうことに何の迷いもなかった。手を出せば、入ってきた。配る側に立った今のほうが、よほど難しい顔をしている。

あげたい、という気持ちの正体について、少し考えてみる。本当に相手のためだったのか。それとも、誰かに何かを渡している自分、というものを見たかっただけなのか。……と、ここまで書いて気づいたけれど、たぶんどちらも半分くらい本当なのだと思う。きれいに分けられるものでもない。

残り五個になったとき、ようやく隣の席の人に渡せた。「あ、ハロウィンですね」とだけ言われて、それで終わった。拍子抜けするくらい、何でもない出来事だった。渡せてよかった、という気持ちより先に、残り四個かという計算が頭に浮かんだ自分に、少し笑ってしまう。

結局、最後の二個は家に持ち帰って、自分で食べた。十月二十六日の夜、風呂上がりに冷蔵庫の前で立ったまま口に入れた。コウモリの形はもう溶けかけていて、形も何も分からなくなっていた。季節の形をしたものは、溶けると途端にただのチョコレートになる。それが少しさびしい。

来年もきっと、同じ袋を同じように買うのだろう。配るつもりで買って、配りきれずに、自分の胃袋に収めて終わる。分かっているのに、また買う。そういう繰り返しに、呆れながらも、どこか安心している自分もいる。毎年同じ失敗ができるというのは、それはそれで悪くない。

あなたも今年、誰かにあげようとして渡せなかったものが、ひとつくらいあるかもしれない。渡せなかったことを責めなくていい。カバンの奥でしなびたそれは、あなたがちゃんと誰かのことを考えた証拠でもある。

十月の終わりの空気は、もう秋というより、冬の入口に近い匂いがする。ハロウィンの袋がスーパーの棚から消えて、代わりにクリスマスの赤と緑が並び始める。季節はこちらの都合を待ってくれない。配りそびれたお菓子みたいに、今年もまた静かに過ぎていく。

それでいいのだと思う。配れても配れなくても、誰かのために何かを選んだ時間があったことは、ちゃんと残っている。甘ったるい後味と一緒に、今年のハロウィンも、胃のあたりにそっとしまっておくことにする。

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