9月14日の夜、21時40分。扇風機の前に体育座りをして、首振りの「切」ボタンを押さずにいる。風がこっちを向いたり、あっちを向いたりするのを、ただ見ている。今日の最高気温は28度だったらしい。もう秋ですよと駅のアナウンスは言うけれど、扇風機はまだ現役で、羽根の音はカタ、カタ、と去年とおなじリズムで鳴っている。
窓を薄く開けている。網戸の向こうから、鈴虫の声が二匹分くらい届く。蝉はもういない。あの、うるさくて仕方なかった声が、いつのまにか消えていることに、聞こえなくなってから気づく。いなくなる瞬間を見送った記憶が一度もないまま、毎年いなくなっている。
扇風機をしまう、という行為は、思っていたよりも重い決断だった。しまうということは、「もう暑くなることはない」と自分で判断することで、そんな予知能力、私にはない。9月の東京は油断ならない。去年も9月の20日過ぎに30度を超えた日があって、しまったばかりの扇風機をまた押し入れから出す羽目になった。あのときの、埃をかぶった羽根を拭きながらの気まずさといったらない。
うちの扇風機は山善の、型番も覚えていない白いやつで、電源ボタンのところに貼ってあったシールはもう半分剥がれている。何のシールだったかも思い出せない。たぶん「弱・中・強」の説明だった気がするけれど、今となっては勘で押している。3年目にしてようやく、体がボタンの位置を覚えた。
しまうタイミングというのは、誰かが教えてくれるものではない。カレンダーに「本日、扇風機の日」なんて書いてある日はない。だから毎年、自分の中の何かがふっと「今かな」と思う瞬間を待つしかなくて、その瞬間がいつまで経っても来ないまま、気づけば11月になっていたりする。去年、しまったのがいつだったか、まったく覚えていない。多分、覚えていないくらいには、なんとなく、だったのだと思う。
この葛藤を毎年律儀にやっている自分に、正直ちょっと笑ってしまう。去年の自分に「今年こそ早めにしまおうね」と言われても、今年の自分はまったく同じ場所で同じように迷っている。学習能力、ゼロ。扇風機に関してだけは、私はまったく成長しない生き物らしい。
しまえない理由を、寒くなるのが怖いからだと思っていた。でも今夜、体育座りのままぼんやりしていて気づいたのは、それだけじゃないということだった。しまうというのは、この部屋にあった「夏」というものを、押し入れの奥にぎゅっと押し込めることでもある。扇風機と一緒に、あの生ぬるい夜の匂いも、汗ばんだ首筋も、麦茶の氷の音も、全部まとめてしまうことになる気がして、それがなんとなく、寂しい。
……と、ここまで書いていて、我ながら大げさだなと思う。ただの家電に、そこまでの意味を持たせなくてもいいはずだ。でも人間は多分、意味のないものにまで意味を見つけて、それで少しだけ、季節を惜しむ練習をしているのかもしれない。扇風機一台をしまえないくらいで、大きな問題は何も起きない。それはわかっている。わかっているのに、体が動かない。
押し入れの奥には、去年使っていた除湿剤の空き容器がまだ入っている。あれもいつか片付けなきゃと思いながら、もう二年くらい経っている。扇風機をしまう日が来たら、ついでにあれも捨てよう、そう思ってはや何回目かの秋。多分、また今年も思うだけで終わる。
鈴虫の声は、さっきよりも近くなった気がする。窓の外、隣の敷地の植え込みのあたりだろうか。この声も、あと一か月もすれば静かになる。今年の音を、今年ちゃんと聞けているだろうか。そう思うと、扇風機の風を止める前に、もう少しだけこの夜に座っていたくなる。
あなたも今日、暑いんだか涼しいんだかわからない一日を、なんとなくやり過ごしただろうか。衣替えも、扇風機も、まだ半分のままでも、別にいい。誰かに提出する宿題じゃない。季節の変わり目に、きっちり片付けられる人間なんて、そんなに多くない。
結局、今夜も首振りボタンは押さないまま、扇風機の前でだらだらと過ごした。しまうかどうかは、また今度考える。今度っていつだよ、と自分に突っ込みたくなるけれど、その「今度」がなかなか来ないのも含めて、今年の夏だったということにしておく。
しまえない扇風機の風を浴びながら、それでもいいかと思う。片付いていない部屋も、決めきれていない自分も、そのまま9月の夜に置いておく。風は今夜も、こっちを向いたり、あっちを向いたりしている。それを、ただ見ている時間があってもいい。
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