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駅前の温度計、いつも高く出ている

8月14日、15時22分。駅前の電光掲示板が「ただいまの気温 39℃」と赤く表示していて、信号待ちをしていた数人が、ほぼ同時に小さくのけぞった。わたしも、のけぞった一人だった。39℃。そんなはずがあるか、と思いながらも、体はもう汗をだらだら流していて、脳が先に「これは非常事態だ」と判断してしまっていた。

その日、家に帰ってスマホの天気アプリを見たら、同じ時刻の気温は35℃と出ていた。4度も違う。4度といえば、真夏と初夏くらいの差だ。どちらを信じればいいのか、実はもうどちらでもよくて、わたしはすでに駅前で消耗しきったあとだった。

あとで知ったのだけれど、ああいう街の温度計は、地面に近い場所に設置されていることが多いらしい。アスファルトの照り返しをまともに受ける高さに立っていて、体感よりずっと高い数字を叩き出す。つまりあれは、嘘ではないけれど、いちばん過酷な条件だけを切り取った数字なのだった。

そう聞いて、なんだか自分のことみたいだと思った。誰かに調子を聞かれて「まあまあです」と答えるとき、わたしはいつも、一番しんどかった瞬間の気温で答えている気がする。月曜の朝の、あの信号待ちの39℃で、一週間ぜんぶを語ってしまう。実際はその日の夕方には落ち着いていたのに。

逆のこともある。ちゃんと疲れているのに、「まあ大丈夫」と、涼しい顔の温度計で答えてしまうこともある。どっちに転んでも、実際の気温とは違う数字を、自分に向かって発表し続けているような感覚がある。信じているのは自分なのに、その計測器の精度をまったく疑っていない。

駅前の温度計の前で、隣にいた高校生くらいの男の子が「うわ、無理じゃん」と笑いながら友達に言っていた。無理じゃん、で済ませられるのが少し羨ましかった。わたしだったら、無理じゃんのあとに「でも行くしかないしな」まで自動で続けてしまう。続けなくていいのに。

信号はなかなか青にならなかった。あとで数えたら、あの交差点、赤信号がだいたい90秒あるらしい。90秒って、そんなに長かったっけ、と炎天下で立ち尽くしながら考えていた。何もしていない90秒のはずなのに、汗がこめかみを一筋伝って、シャツの襟にしみをつくるには十分な長さだった。

…と、ここまで書いていて気づいたのだけれど、わたしは別に温度計に恨みがあるわけではない。むしろ律儀だと思う。誰に頼まれたわけでもないのに、毎日毎時間、暑さのいちばんきついところを、ひとりで表示し続けている。あれはあれで、けっこう過酷な仕事なんじゃないだろうか。

自分の中にも、そういう温度計がひとつあるような気がしている。しんどさを、いちばん低い場所から、照り返しごと拾って報告してくる装置。だから数字だけ見ると絶望的なのに、実際に外に出てみると、思ったよりは歩けたりする。歩けたことにほっとするのと同時に、さっきの数字は何だったんだと、ちょっと腹も立つ。

その日は結局、駅前のコンビニでアイスの棒つきを買って、店の軒先の日陰で立ったまま食べた。溶けるのが早くて、袋を開けてから食べ終わるまで4分もかからなかった気がする。味なんてほとんど覚えていない。ただ、日陰にいるだけで、体感の数字がすっと下がったのはよく覚えている。

温度計は正しいことしか言っていない。あの場所、あの高さ、あの瞬間の気温としては、たぶん39℃で合っている。ただそれは、わたしの一日ぜんぶの気温ではなかった、というだけの話だ。一番熱いところの数字を、その日の代表として受け取ってしまう癖が、わたしにはある。

本当は、家に着いて麦茶を一杯飲んだ瞬間の、あのほっとする感じの気温も、ちゃんと自分の一日には含まれている。含めていいはずなのに、なぜか記憶に残るのは駅前の39℃のほうで、この癖はたぶん、これからもそう簡単には直らないだろう。

それでもいい、と、いまは思うことにしている。直らないものを、無理やり直そうとして、また余計な熱を出すくらいなら、いっそ「今日は駅前だけ39℃だった」と、範囲を区切って忘れてしまうほうが早い。忘れる、というより、その数字をその場所に置いて帰る、という感じに近いかもしれない。

あなたも今日、どこかの交差点で、実際よりちょっと高い数字を見せられて、ひとりでのけぞったかもしれない。それでも家までちゃんと帰ってきた。それだけで、今日はもう十分だと思う。

駅前の温度計は、明日もきっと高く出る。わたしはたぶん、それを見てまたのけぞる。のけぞりながらも、案外、家にはちゃんと着くのだと思う。それくらいの信じ方で、この夏はやり過ごしていければいい。

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