10月14日、仕事帰りの道。いつもの公園の脇を通ったら、アスファルトの上にどんぐりがいくつも転がっていた。別に拾う予定なんてなかったのに、気づいたら屈んで、ひとつ拾い上げていた。
殻はつやつやとしていて、指で挟むとひんやりと重い。帽子のついたやつを選んでしまうのはなぜなんだろう。ポケットに入れて歩くと、歩くたびにコツ、コツ、と鳴る。その音だけで、少し機嫌がよくなった自分がいる。
家に着く頃には4つに増えていた。欲しかったわけじゃない。食べるわけでも、何かに使うわけでもない。32歳の会社員が、道端のどんぐりをポケットいっぱいにして帰ってくる。傍から見たらちょっと心配な光景だったかもしれない。
理由もなく拾ってしまうものが、まだ自分の中に残っている。それに気づいたのが、今日いちばんの収穫だった気がする。
玄関の靴箱の上に、4つ並べてみた。大きさも帽子のかぶり方もばらばらで、見ているとなんとなく愉快だった。しばらく眺めて、そのまま忘れた。
3日後の夜、靴を脱ごうとしてふと目をやると、ひとつのどんぐりに小さな穴が開いていた。穴のまわりに白い粉のようなものが散らばっている。何だろう、と顔を近づけた瞬間、穴から白くて細いものがにゅっと出てきた。
声が出た。しかも結構な声量で出た。隣の部屋のテレビの音が一瞬止まったような気がしたけど、気のせいだったことにしている。いい歳をして虫一匹に叫んだ自分を、誰かに見られていなくてよかったと心から思う。
落ち着いてから調べると、どんぐりの中に卵を産みつける虫がいて、拾って数日経つとこうして孵化することがあるらしい、と昔どこかで聞いた気がする。母がそういえば、拾ってきたどんぐりをいつも冷凍庫に入れていた。小学生の頃は意味がわからなかったけれど、今ならわかる。あれは虫を眠らせるためだったのだ。
残り3つを急いでジップロックに入れて、製氷室の隅に押し込んだ。冷凍庫を開けるたびに、保冷剤とぎょうざの隣にどんぐりの袋があるのが目に入って、そのたびに少し気まずい。何かの罰ゲームみたいな配置になっている。
子供の頃、どんぐりごまを作ろうとして、串を刺す場所がいつもずれて全然回らなかったことを思い出した。何度やっても片側に転がって終わる。あの不器用さは、今もたいして変わっていない気がする。
気持ち悪い、と思ったのは最初の一瞬だけで、少し時間が経つと、あの小さな殻の中にちゃんと命が入っていたんだな、という方に気持ちが寄っていった。拾ったときはただの木の実だと思っていたのに、実はもう誰かの家だった。
自分のものにしたつもりで、実は何も自分のものになっていなかった。そういうことは、どんぐり以外にもたくさんある気がする。手に入れたと思った瞬間から、もう違う形に変わっていく。止めようがないし、止める必要もないのかもしれない。
ここまで書いて気づいたけれど、別に虫を退治したくて冷凍庫に入れたわけじゃなかった。ただ、どうしていいかわからなくて、とりあえず眠らせる以外の方法が思いつかなかっただけだ。わかっているのに、ちゃんと向き合えない。それでも、冷凍庫の中でどんぐりは静かにしている。
今日も駅までの道のりを、ちゃんと自分の足で歩いてきた。それだけで、もう十分な一日だったと思う。
来年の10月もきっと、同じ公園で同じようにどんぐりを拾ってしまうんだろうなと思う。虫が出てくることも、冷凍庫に気まずく居座ることも、きっとまた同じように起きる。学習しない自分にちょっと呆れながらも、それでいいかという気持ちの方が、今はなぜか大きい。
意味のないものを、意味もなく拾ってしまう10月があっていい。虫に驚いて叫んでしまう夜があっていい。そういう小さなでこぼこごと、今年の秋も静かに過ぎていく。
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