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読書感想文がない夏に、まだ慣れない

8月28日の夕方、駅前のスーパーの文具コーナーに寄ったら、原稿用紙の束が半額のシールを貼られて棚の隅に追いやられていた。400字詰め、20枚入り、198円が99円。誰も買わないんだろうな、と思いながら、なぜか一冊だけ手に取ってレジに並んだ。使う予定なんて、ひとつもないのに。

蛍光灯の下で見る原稿用紙のマス目は、記憶の中よりずっと薄い水色をしていた。指でなぞると、ざらついた紙の感触がある。この感触、たしか小学校の教室の机の木目とセットで覚えている。夏休みの終わりの数日、机に向かって、原稿用紙の升目をひとつずつ埋めていく、あの重たい時間とセットで。

読書感想文というやつが、私はずっと苦手だった。本を読むのは好きなのに、感想を書けと言われた瞬間に、頭の中が真っ白になる。「おもしろかったです」以外の言葉が出てこなくて、それじゃだめだと分かっているのに、それ以上が出てこない。8月30日の夜、蝉の声もいつのまにか止んだ部屋で、母に「あと2枚」と急かされながら、涙目でマス目を埋めていた記憶がある。

あの頃の私は、9月1日という日を、世界が終わるみたいに恐れていた。宿題が終わっていなければ地獄で、終わっていれば天国。そのくらい単純な世界だった。今思えば、あんなに分かりやすい締め切りが人生にあったのは、あの数年間だけだったかもしれない。

大人になると、締め切りは自分で作るしかなくなる。会社の仕事には締め切りがあるけれど、それとは別の、自分の時間の使い方についての締め切りは、誰も決めてくれない。休日に何をしようが自由だし、本を読もうが読むまいが誰にも怒られない。それなのに、この自由に、私はいまだに慣れていない。

レジ袋に入れた原稿用紙を持って家に帰る途中、ふと気づいた。宿題がなくなってもう15年くらい経つのに、私は毎年8月の終わりになると、なんとなく落ち着かない気分になる。何かをやり残しているような、何かを提出しなければいけないような。でも提出先はどこにもない。この感覚だけが、ずっと居座っている。

…と、ここまで書いて気づいたのだけれど、私が本当に恐れているのは9月1日ではなくて、「何も決まっていない自由な時間」そのものなのかもしれない。宿題があった頃は、その苦しさの向こうに「終わったら遊べる」という約束があった。今はその約束がない。ただ時間だけが、麦茶みたいに薄く延びていく。

家に帰って、氷を入れすぎた麦茶を飲みながら、買ってきた原稿用紙をテーブルの上に置いてみた。何を書くわけでもなく、ただ置いてある。読みかけの文庫本も、隣に3冊積んである。表紙のカバーはどれも半分めくれていて、しおりの位置は3週間くらい前から動いていない。積読、という言葉があるけれど、これはもう積読というより、ただの家具に近い。

課題図書を選ぶとき、私はいつも一番薄い本を選んでいた。中身なんてろくに見ずに、ページ数とあらすじの短さだけで決めていた。今もその癖が抜けなくて、書店で本を選ぶとき、まず厚みを確認してしまう。中身より先に、読み終えられるかどうかを心配する。そういうところ、たぶん一生直らない。

夏休みの区切りがなくなったぶん、大人の夏はどこまでもだらだら続く。8月が終わっても、9月になっても、蝉の声が少し減るくらいで、生活は変わらない。区切りがないというのは、自由なはずなのに、なぜかどこにも着地できない感じがする。子どもの頃は、宿題という重石があったから、終わったときの解放感があった。今は重石がない代わりに、解放感もない。

それでも、と思う。締め切りがないからこそ、今日読み終えなくてもいい本があって、今日書かなくてもいい感想文がある。それは本当は、ずいぶん贅沢なことなのかもしれない。あの頃泣きながら埋めていた升目を、今はもう誰にも強制されずに、白いまま眺めていられる。それだけで、少しだけ救われている気もする。

あなたも、今年の夏、何か終わらせなきゃいけないことをひとつくらい放り出したまま、ここまで来たんじゃないだろうか。だとしたら、それでいいと思う。読書感想文がない夏に、私はまだ慣れていないけれど、慣れなくてもべつに困らない。困らないということに、今夜やっと気づいた。

買った原稿用紙は、結局そのまま引き出しにしまった。来年の8月にまた見つけて、同じように戸惑うかもしれない。それでいい。締め切りのない自由を、うまく使いこなせない自分のことを、責めなくていいと思えた夜だった。

麦茶のグラスの氷はもうすっかり溶けて、味が薄くなっていた。それでも飲み干した。薄くても、麦茶は麦茶だった。

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