← 無理なく

除湿機のタンク、また満杯になっていた

23時過ぎ、除湿機の運転音がふっと変わる。ブーンという一定の唸りから、ピー、という電子音に切り替わって、赤いランプが点滅する。ああ、また満杯か、と思いながらリモコンも見ずにわかるようになった。タンク満水のサインだ。

持ち上げると、ずしりと重い。2.5リットルのタンクに、部屋の湿気がぎゅっと詰め込まれている。中の水は驚くほど澄んでいて、においもほとんどない。ただの水だ。空気中をふわふわ漂っていたものが、いつの間にか手のひらの中で液体の重さになっている。それがなんだか、少し不思議に思える瞬間がある。

ベランダに出て、排水溝に向けてタンクを傾ける。ちゃぷ、ちゃぷ、と音を立てて水が落ちていく。真夏の夜のベランダは、コンクリートの熱がまだ残っていて、水を流した端からうっすら湯気のようなものが立つ気がする。気のせいかもしれない。でも毎回、そんな気がしてしまう。

空にしたタンクを戻して、また運転ボタンを押す。それだけの作業なのに、なぜか少し達成感がある。よし、これでしばらく大丈夫、と思う。けれど翌朝7時、洗濯物を干そうとリビングに戻ると、もう赤いランプが点滅している。たった八時間で、また満杯だ。

部屋干しの匂いのする朝、タンクを空けながら思う。昨日の夜も空にしたはずなのに。何度空にしても、また満ちてくる。当たり前といえば当たり前で、除湿機はそういう機械だから当然なのだけれど、その当たり前さに、朝からちょっと疲れる自分がいる。

一度、捨てるのがもったいなくて、その水を植木にあげようとしたことがある。除湿機の水だから不純物もなさそうだし、いいことをした気分になれるかもと思ったのだ。結果、ベランダの床が水浸しになっただけだった。植木鉢の受け皿の位置を完全に見誤っていて、水はほとんど床を伝ってサンダルの中に流れ込んだ。あの日から、水はただ排水溝に流すことにしている。良いことをしようとして、ただ足元を濡らしただけの夜だった。

タンクの水を見ながら、これは自分の疲れと似ているかもしれない、とふと思う。一日働いて、人と話して、電車に揺られて帰ってきて、寝て起きると、なんとなくまた空っぽに戻っている……はずなのに、翌朝にはもう別の重さが溜まっている。空にしても空にしても、また満ちる。まるでタンクみたいに。

いや、違うかもしれない。タンクの水は空にすれば本当にゼロになる。でも自分の中の疲れは、完全にゼロになったことなんて一度もない気がする。少し軽くなる、くらいが精いっぱいで、それでも次の日にはまた重さが戻ってくる。タンクよりもずっと分の悪い容器を、自分は抱えているのかもしれない。

それでも、と思う。空にする作業そのものをやめるわけにはいかない。タンクを空にしなければ除湿機は止まってしまうし、止まれば部屋はどんどん湿っていく。満ちては空にし、また満ちる。その繰り返しのなかにしか、涼しい部屋も、乾いた洗濯物も、ない。

満杯になったことを、失敗だとは思わない。むしろ、ちゃんと働いた証拠だ。タンクがいつまでも空のままだったら、それはそれで除湿機が壊れているということだから。満ちることには意味がある。空にすることにも意味がある。どちらか一方だけでは、この夏の湿気には勝てない。

23時46分、また電子音が鳴った。今日はもう寝るから、明日の朝でいいか、と思って布団に入る。タンクは満杯のまま一晩置かれることになる。それでいい。溜まったものを、その日のうちに全部片づけなくてもいい。翌朝、少し寝坊した頭で空にすればいいだけの話だ。

あなたも今日、暑い中をよく歩いた。たぶん、見えないタンクにいろいろ溜め込みながら。空にする時間も、空にしきれない日もあるだろうけれど、それでいいと思う。満ちることは、ちゃんと生きて働いた証だから。

除湿機のタンクは、今夜もどこかの部屋で静かに満ちていっている。誰かがそれに気づいて、赤いランプを見て、ああ、また満杯か、と少し面倒くさそうにベランダへ運ぶ。その繰り返しのなかに、案外ちゃんとした暮らしがある。空にしても、また満ちる。それを、今年の夏はそういうものだと思って眺めている。

← 記事一覧にもどる