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とうもろこし、剥いても剥いても出てくる皮

スーパーの野菜売り場に、198円のとうもろこしが山になって積まれていたのが、8月の初めだった。品種名までは覚えていないけれど、皮の先から髭がちょろっと飛び出していて、それが妙に元気そうに見えて、二本だけ買った。レジ袋がぱんぱんに膨らむわけでもないのに、持ち手にずしりと重さがのる、あの感じ。

家に帰って、シンクの前で皮を剥き始める。いちばん外側の、少し乾いた緑の皮を剥がすと、その下からまた緑の皮が出てくる。剥いた、と思ったら、まだある。もう一枚剥いたら、今度は薄くて透明に近い、絹みたいな膜がぴったり実に張りついている。これも剥がすのか、と手が止まる。爪の間に細い繊維が入り込んで、少しちくちくする。青臭いような、水っぽいような匂いが指先に残る。

子どもの頃、祖母の家の縁側でこれをやらされていた記憶がある。剥いても剥いても終わらないから、途中で飽きて放り出して、祖母に「最後までやりな」と言われた。あのときは本当に、永遠に皮が出てくる植物だと思っていた。大人になったいまも、正直そこまで感覚は変わっていない。剥いても剥いても、まだ皮がある。

薄皮は全部きれいに取らなくても大丈夫だと知ったのは、わりと最近のことだ。一、二枚残っていても、茹でればふやけて、食べるときに気にならない。むしろ実がぱさつかずに済むとかで、誰かがそう言っていた気もするし、自分で気づいた気もする。もう記憶が曖昧で、どちらでもいい。とにかく、完璧に剥かなくていい、ということだけは、いまはわかっている。

鍋にお湯を沸かして、塩を少し入れて、とうもろこしを丸ごと沈める。4分。タイマーをかけて、その間だけソファに座ってスマホを見る。通知が3件たまっていて、どれも急ぎではないのに、見た瞬間に肩の力が抜けなかった自分に気づく。急ぎではないとわかっているのに、なぜ反応してしまうのか。わからないまま、湯気の匂いがキッチンから漂ってくる。

皮を剥いていたときのことを、湯気を見ながらぼんやり思い出す。剥いても剥いても出てくる、というあの感覚は、そういえば仕事のタスクにもよく似ている。ひとつ片付けたと思ったら、その下からまた別の用件が出てくる。メールに返信したら、また別のメールが来る。剥いても剥いても、芯までたどり着けない。とうもろこしなら芯まで行けば実があるとわかっているけれど、仕事の場合、芯の向こうに何があるのか、正直よくわからない。

……と、ここまで書いていて気づいたけれど、とうもろこしには終わりがある。皮は有限だ。仕事のタスクみたいに、剥いても剥いても永遠に増え続けるわけではない。たとえが少し強引だったかもしれない。それでも、剥いているあいだの「まだあるのか」という気持ちだけは、たしかに同じ手触りをしている。

4分経って、鍋から湯気ごと引き上げる。熱いので菜箸で挟んで、まな板に転がす。粒がぎっしり並んでいるのを見ると、単純に、きれいだなと思う。皮を剥いていた時間のことなど、実を齧った瞬間にはもう忘れている。甘くて、少し塩気があって、汁が顎まで垂れる。行儀は良くないけれど、立ったまま食べるとうもろこしが一番おいしい気がする。これは誰の教えでもなく、ただの好みだ。

食べ終わって、芯だけがまな板に残る。粒がなくなった芯は、思っていたよりずっと軽くて、細い。あれだけ皮を何枚も重ねて守っていたものの正体が、こんなに頼りない棒だったのかと、少し拍子抜けする。守っているものの中身は、剥いてみるまでわからない。剥いた後でさえ、拍子抜けすることのほうが多いかもしれない。

翌朝、シンクの三角コーナーに皮の残骸が溜まっているのを見て、また少し笑ってしまう。あれだけ格闘したのに、燃えるゴミの日まで、ただそこに置かれているだけの存在になる。剥がした皮に未練はないけれど、あの晩の指先のちくちくした感触だけは、なぜかしばらく手に残っていた気がする。触れていた時間は、ちゃんとどこかに残るのかもしれない。

8月の夜は、こういうどうでもいい作業をしているときだけ、時間の流れ方が少し違う気がする。冷房の効いた部屋で、外の蝉の声を遠くに聞きながら、皮を一枚ずつ剥いていく。それだけの時間に、特に意味はない。意味はないけれど、意味を求めなくていい時間というのは、案外貴重なのかもしれない。

剥いても剥いても出てくる皮に苛立たなくなったのは、いつからだろう。全部きれいにしなくていい、と知ったからか。それとも、単に面倒になって手を抜くことを覚えただけなのか。たぶん両方だ。丁寧さを手放したわけではなく、丁寧さの基準を自分で少し下げただけ。それでも十分おいしく茹で上がる、ということを、とうもろこし相手に何年もかけて学んだ気がする。

仕事の用件は、とうもろこしのようにはいかない。剥いても剥いても芯が見えないし、茹で時間も決まっていない。それでも、全部を完璧に片付けなくても、案外まわりは困らない、ということだけは、少しずつわかってきた。わかっているのに、締め切りが近づくとまた全部やろうとしてしまう。わかっていることと、できることのあいだには、いつも薄皮くらいの隔たりが残っている。

この夏もきっと、あと何回かとうもろこしを買う。皮を剥きながら、また同じことを考えて、同じように途中で飽きて、それでも茹で上がったものはちゃんとおいしい。矛盾したまま、それでいいような気がしている。

今日もいろんなことを、剥いても剥いても終わらせられなかったかもしれない。それでも、こうして夜まで一日を運んできたあなたは、それだけでもう十分にがんばっている。芯まで剥けなくても、実はちゃんと甘い。そういうことにしておきたい、この夏の夜は。

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